手紙を書いているとき


 私は一応大学でコミュニケーションという、わかったかわからないようなものについて五年ほど(四年で終わらなかった、大学が好きすぎて)学んでいたので、人と人とのコミュニケーションについては多少の知見がある、と自分では思っている。

 手紙という通信手段は、もはやレトロなものになりつつあるが、今でも一応有力な手段である。それは、未だに重要なものごと、たとえば合格通知だとか、内容証明だとかが、それなりに電子化されつつあるけれども、そういった類のことはまず手紙によって行われていることからも明らかだ。逆に、「明日何食べる?」とか「今度の週末どこに行こうか?」といった連絡に手紙を使う人はまずいない。要するに、手紙というものは、今日では、「重たいもの」を運んでくるヴィークルだということだ。

 だからこそ、私は何かと手紙というものにこだわるし、手紙というものが好きだ。あまのじゃくなところがあるから、「軽いこと」を手紙に乗せて伝えるのが好きなのだ。今でも年間何通かは手紙をやりとりする。残念ながら最近ラブレターの類を書く必要性に駆られていないのだが、そういうものを沢山書いていた時期もある。

 夜のひとりの静かな時間に、お気に入りの音楽をかけて、お気に入りの万年筆で、その時々連絡を取りたい誰かに宛てて書く。「これを読んだらあの人はどんな顔をするだろう」といったことはあまり考えない。正直、内容はどうでも良かったりする。でも、そうして手を動かしている時間は、目に見えない特別な回路でその人とつながっているような感触があるのだ。こういう感触は、LINEや、電話といった、いわゆる「同期的」なコミュニケーションツールでは味わえないものだ。

 とても狭くて、細くて、でも親密な感じのする小径を通って、私の言葉はどこかへと続いてゆくのである。こういう時に感じる幸福は、孤独を癒やしはしないけれど、孤独によい香りを与えてくれる。