元気のふしぎな性質

 

 何の変哲もない表現が、よくよく考えてみると、思いがけない発見を齎すということが、まれにではあるが、ある。私はつい最近、ちょっとしたことをじっくり考えてしまった。「元気」って何だろう、という話だ。

 

 誰かと何かの世間話をしていた拍子に、「いや、今回は逆にこちらが元気をもらいましたよ」みたいなことを言った。特に深い意図もなくそう言った。よく聞く言葉ではある。でもこれって、実は結構不思議なことを口にしているんじゃないか? と思ったのである。

 

 たとえば「応援」ということを考えてみたい。

 スポーツの応援がわかりやすいかな、と思ったのだけれど、これは例として不適切であることに気が付いたので、ここでは「受験の応援」にしてみる。

 受験の応援とは何ぞや、と思う方もおられるだろう。中学受験でも、高校受験でも、大学受験でもいいのだが、受験当日の朝、生徒が受ける学校の前で立っている先生、みたいなのをイメージしてほしい。キットカットなんかを持っているかもしれない。「がんばれよ」と言って生徒を送り出す、アレである。親がやることもあるだろう。誰しも、一度くらいは見かけたことがあるのではないだろうか。

 

 あれは応援だから、当然、元気を「あげに」行っているはずである。これは純粋に応援で、純粋に元気を、つまりエネルギーを「与えに」いくものである。決してもらいに行くのではない。

 元気というもの、やる気というもの、目には見えないけれど、一種の力の源であることは間違いない。元気だったらいろんなことができるわけだから。でも、少し科学チックな意味で、元気をエネルギーとして捉えてみたならば、当然それは有限であるという結論が導ける。

 

 ということは、当然、元気を「あげ」に行ったのならば、自分の元気が減るはずだ。エネルギー保存則から言うと、たぶんそうなるはずだ。何かしら、こちらがマイナスにならなければ、相手がプラスになるなどおかしな話である。

 

 ところが、である。こういった受験の応援みたいなことでも、早起きして、行ってみて、生徒(や自分のこども)に会って、一声かけると、逆に自分のほうに力が湧いてくる、ということがあるのである。帰路は何となく前向きな気分になっている。これは、エネルギーをあげに行ったはずが、「もらって」しまっているのである。これは本当に不思議なことである。

 

 なぜなら、そういった応援では、実際には、その生徒やこどもが「がんばる」ところは一切見られないからである。これがスポーツと違うところだ。

 

 スポーツだったら、応援にいくということは多くの場合、観戦するということであり、応援にいったつもりだが逆に元気をもらった、というロジックは成り立たない。それはむしろ、「元気をもらいに行っている」と言える行為なのである。なぜならスポーツの試合というのは、エネルギーとエネルギーのぶつかり合いで、見ている人は当然そのエネルギーを吸収するからだ。ある意味で、ここでは身体的エネルギーと、精神的エネルギー(=元気)の変換が行われていると見ることもできる。

 

 なぜ応援に行った側が元気をもらうのか、については、ひとつ仮説を思いついた。

 

 どうも、人間が内に秘めているエネルギーというのは、いわゆる電力とかとは、違う成り立ち方をしているのだろう。そのエネルギーは、不思議で、「使えば使うほど増える」のだ。それも、「他者のために使えば使うほど」増えるものなのだと思う。誰かのために応援に駆け付けるという行為をした時点で、その行為が元気を生むということだ。

 

 私はこれを不思議だと思うけれど、ここに神様が出てくれば一気に説明がつく。要するに、よい行いをする人に対しては、神様がエネルギーを授けてくれているのだ。それが宗教というものなのだろうなと思う。宗教は、もしそれを心の底から信じることができたならば、精神的エネルギーの源泉となりうる。

 

 ただ、私はうまく宗教的なエネルギーの源泉を信じることができないので、こう考える。元気というものは、本来無限なのだと。他者に元気を与えようと思う気持ちが、行為が、自らの元気を生み出すことにつながるのだと。

 

 そう考えると、毎日元気に楽しく生きようと思うなら、誰かに元気になってもらうような生き方をするのが一番合理的なのだろうという結論が導かれる。現代にはあまり馴染まないかもしれないが、利他的であることがすなわち自らの利益にもつながるという考え方は、精神的な範疇であれば、ひとつの倫理としてあってもよいと思っている。