祈るとき

 

 

 私は比較的「祈る」という言葉を頻繁に使う人間だと思う。実際よく祈る(人事部とかではないですよ)。自分のために祈ることもあるし、他人のために祈ることもある。日記にもよく「祈った」と書いてある。

 

 私はキリスト教徒ではないけれど、中・高とキリスト教主義の学校に行っていたということの影響が大きいと感じている。ただ、別にキリスト教でなくとも、仏教でも、イスラム教でも、同じように、宗教だけ抜け落ちて、祈るという行為だけが成人した私の中に残ったのではないかと推測している。祈るというのにも、多少の習熟は要る。毎週、決まった礼拝があって、数秒の祈りの時間を提供してくれる学校に行ったのは良かった。

 

 祈りのいいところは、祈っているということを、その人に伝えてもいいし、伝えなくてもいいというところだ。何か困難に直面している友人と食事に行き、別れるときに、「あなたのために祈っているよ」(当然、実際のパロールでは『ほな、ま、祈っとくわ』みたいな感じに大阪ナイズされる)と伝えることは、たぶん、「がんばって」とか「きっとうまくいくよ」と言うより、お互い負担が軽い気がするのだ。言えなかったときは、その日の夜、日記に「〇〇のために祈る」とだけ書く。

 

 前者はともかく、後者は意味があるのかと問われそうだ。声をかけるわけでもなく、手を握るわけでもなく、何らかのエネルギーがやり取りされるというのではない。私は勝手に祈り、祈られた方は、祈られたことを知らない。世界は微動だにしない。ように見える。

 

 でも泉には静かに波が立つのである。目に見えているこの世界の裏側には巨大な泉があって、私たちはそれを取り囲んで生きている。そこでは伝わらないはずのことが伝わる。私があなたのために祈ったということが、小さな波になって反対側のあなたに伝わる。逆もまた然り。私は世界というものをこんな風に捉えているし、そういう裏地があるからこそ、表側の世界を何とか生き抜いてゆけるのだと思う。

 

 就活のせいで「お祈りメール」には不吉な印象が付与されてしまったようだが、本来祈るという行為は、生活のどこかに何気なくあってもいい気がする。