接着剤みたいな哲学者 アウグスティヌス

 

 


 どうしてアウグスティヌスに興味を持ったのかよく憶えていないのだが、去年の秋くらいに梅田のジュンク堂で、ふと惹かれて買った。アウグスティヌスに関しては、名前を知っている程度で、たしかハンナ・アーレントの博士論文のタイトルが「アウグスティヌスの愛の概念」とかそういうので、色々なものにかぶれていた大学時代の私は自分の卒業論文に題名をつけるときに、それを少しもじった。要するにその程度の理解である。

 

 アウグスティヌスは4〜5世紀の地中海周辺で生きた人で、キリスト教徒の母と異教徒の父の元に生まれた。この、4〜5世紀というのがなかなかイメージしにくいのだが、日本では巨大な古墳が造られていた時代だ。

 

 アウグスティヌス自身ものちにキリスト教徒となり、「教父」と呼ばれるほどに、カトリック信仰の確立に貢献したという。恐ろしくざっくり言えば、キリスト教(主にカトリック)についてアレコレと考えて、モノを考えて、しかもそれを沢山書き残した人、ということだ。彼の残したテキストは膨大で、ひとまず「告白」を読んでみようと思うのだが、「告白」に行く前のジャブとしてこの伝記を読んだ。

 

 一読して私が感じたアウグスティヌスの特徴は「柔軟やなぁ」ということである。アウグスティヌスはいまでこそ教父と讃えられるが、彼が語る内容はガチガチのキリスト教ではない。マニ教に傾倒した時期もある。色々な思想の変遷を経て、キリスト教の理解に、プラトンの哲学を乗っけたところが柔軟だと思う。そういう意味で接着剤のような人である。

 

 同時代の思想を繋げるという意味で横軸の接着剤だが、その接着力はむしろ縦軸に強い。アウグスティヌスから影響を受けた哲学者はたくさんいる。一例として、ポール・リクールを挙げたい。リクールの最大の著作である「時間と物語」はアウグスティヌスの「告白」のテクスト解釈から始まるのだ。

 

 その接着力こそがアウグスティヌスの魅力であり、それは言い換えれば、読者に自由な連想を許す文章の書き手であった、ということでもあるだろう。

 

 さて、本書だが、伝記筆者によるアウグスティヌス評はなかなかわかりやすく、一歩踏み込んで書いている印象がある。興味深く読んだ。たとえば、

 

 

 アウグスティヌスの初期作品集はすべて対話体であるが、それは思索とは誰かと共に追求するのが最良な作業であるという彼の考えの現れであった。

 

 とか、

 

 骨を折って辿った聖書の言葉に囲まれて他界したのは、アウグスティヌスにふさわしい死であった。アウグスティヌスは、生涯、自らが住まう言葉の宮殿を築き続けた。

 

 

 

 

 などという文章である。こういう文章が随所にあるから、読みやすい伝記になっている。
 
 アウグスティヌスの思想の全容を知ることはかなり難しいと思われるが、この伝記を読めばそのエッセンスは伝わると思う。

 

 

同郷の友人から、人はどのようにして経験したことのないものを「思い出す」ことができるのかと尋ねられたとき、アウグスティヌスは、「苺を食べたことのない人が苺の味を思い出すことはできない」と認めた。「しかし、手元の盃から海をイメージすることはできる」

 

 

 

 というように、必ずしもキリスト教の理解がなくても、さまざまなことを連想しながら読むことができる。以下のアウグスティヌスの著作からの引用などは、現代的なテーマとして扱うこともできるだろう。

 

 

「人間の行動は、それが愛に基づくものであるかどうかによって判断されるべきなのです。…愛をもって行動する限り、好きなように行動してよいのです。…拳は愛の拳であり、甘言は悪徳の囁きです」

 

 

 

 アウグスティヌスは、例えば子供が何か悪いことをしたときに、愛に基づくのであれば、拳を出してもでも構わないという。愛に基づかない、たとえば容易にその悪い行為を許してしまうような甘言は、むしろ悪徳の囁きであるという。

 

 たとえば、体罰に関する議論に、アウグスティヌスはどう応答するであろうか。おそらく現代の日本では、体罰とはすなわち暴力であり、暴力は愛ではないと考えられているだろう。それが小さなものであったとしても、指導者の「愛のこもった拳」は否定される傾向にある。

 

 おおよそ1700年経って、果たして我々は進歩しているのだろうか? それとも後退しているのであろうか?

 

 私が考えたのは、アウグスティヌスが正しいとか、現代の思想が正しいとかではなく、もしかすると、倫理というものは一定の周期で繰り返すものなのかもしれない、ということだ。

 

 アウグスティヌスがこれを書いた時代でも、「愛に基づいた拳」を否定する人はいたはずだ。そして現代では逆に、「暴力は愛ではない」というテーゼを否定する人もいるだろう。

 

 私は愛は暴力たりえないと考えていて、アウグスティヌスがこれを書いた頃よりも人類は多少進歩した(つまり、暴力を行使せずに教育や躾を実現される知恵をつけた)のだ、と考えているが、1700年後もお前はそう思うかと問われたら自信がない。その時の人類はもっと違う新しい倫理を発見しているかもしれないからだ。

 

 と、そんなことを連想して考えられる「余白」を楽しむのが、哲学者の書いた文章を読む意味だと思っている。