2019年に読んだ本

 

 あけましておめでとうございます。2020年もよろしくお願いします。
 
 年も明けたので、2019年に読んだ本を振り返っておきたい。2017年は30冊、2018年も30冊だったわけだが、2019年は38冊の本を読んだ。一年を過ごしているうちはそんなに読んだ感覚がなかったのだが、去年より8冊も多かった。いいんだか悪いんだかは分からないが、それなりに読書に満足できた一年ではあった。

 

 すでにブログで取り上げた本も数冊あるけれど、引用などしながら(ページ数がないものはメモし忘れなのでご容赦ください)、改めてそれぞれの本を短く紹介しておこうと思う。興味のある方はぜひ読んでいただきたい。もし同じ本を読んだ方がいらしたら感想などお寄せください。

 


1.アウグスティヌス(ギャリー・ウィルズ 志度岡理恵訳)

 

 

”わたしたちは美しいものを、ただ美しいから眺め、賛美します。美しいものに対するのは汚いもの、醜いものです。一方、適切なものに対するものは不適切なものです。適切なものは不適切なものがなければ存在することができません。つまり、それ自体では評価できず、対立するものとの関係においてのみ評価できるのです。”

 

 

2.やさしさの精神病理(大平健)

 

 

 いまちょうど大平健訳のフロイト「夢判断」を読んでいるが、この人の本はどれもおもしろい。人と会話することを職業としている人にはかなり参考になるのではないかと思う。とくに終章の「心の偏差値を探して」はミステリ小説顔負けのおもしろさである。

 


3.暗号解読(サイモン・シン 青木薫訳)

 

 

 

第三次世界大戦が起こるとすれば、それは数学者の戦争になるだろうと言われている。なぜなら、戦争の次期兵器となるであろう情報を支配するのは、数学者だからである。”

 

 

 

4.中学受験 6年生からの大逆転メソッド(安浪京子)

 

 

 仕事関連で読んだ。中学受験などは短期間のプロジェクトとして取り組むのがもしかすると最も効率がよいのではないかと思った。本書にあるように、受験は「メンタル五割」というのがあながち誇張でもない気がする。

 

 

5.アンナ・カレーニナ(下)(トルストイ 木村浩訳)

 

 

 読み始めたのがもはやいつだったか思い出せないが、ものすごい長い時間をかけて読んだ。この物語を自分なりに消化してみると(つまり、チェーホフがこの物語を解釈したように、”自分自身の光に照らして解答を取り出す”と)大きく分けて三つの骨子があると思った。

 

①幸福と不幸の物語

 

 冒頭のあの有名な一文からも明らかだし、作中でも度々言及されている。最大のテーゼであると思う。

 

②”女は男の人生を支配する”という物語

 

 モームの「月と六ペンス」でも述べられているが、要するに男の人生は女に支配されるという普遍的な真理について。

 

③リョーヴィンが信仰を取り戻す物語

 

 アンナとヴロンスキーの物語として捉えた場合、これはやはり「明→暗」の物語だが、リョーヴィンの物語として捉えたら、「暗→明」の単純なロマン派的構造に帰着する。

 

 

そして、あたしはあの人を不幸にし、あの人はあたしを不幸にするんだわ。しかも、あの人にしても、あたしにしても、もう別の人間につくりなおすことはできないんだわ。もうありとあらゆる試みをして、ねじを巻けるだけ巻いてしまったんだもの……。”(p.532)

 

6.暴走する能力主義(中村高康)

 

 

 要するに「新しい能力」なんてものはないのではないかということを言った本。大学入試改革に関して色々と動きがあったが、ある意味ではこの動きを予定し、理論的な支えになった考えであると思う。

 

”いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければならない」という議論それ自体である。”

 

 

7.日航123便墜落 最後の証言(堀越豊裕)

 

 

 いわゆる御巣鷹山の事故にはわりと興味があって、まずはフィクションから入った。「クライマーズ・ハイ」の映画→原作、「沈まぬ太陽」のドラマ→原作、といった流れだ。それから昨年(2018年)には、この本の中でも言及のあった青山透子氏の本も読んだ。本書を読んだ理由もそれにある。青山氏の本は衝撃的であったがゆえに、それに対する反論を読んでみたい気がしたのだ。この本は青山氏の本に対するアンチテーゼとして十分な素材を提供しているように思える。ただ、それで何か結論が出るわけではない。

 

 

ハマーシュミットも航空の世界とはほとんど縁がない。米国は政府機関のトップに素人を充てることで、役所における市民感覚を保とうと努めてきた。”(p.102)

 

 

8.棒ふりのカフェテラス(岩城宏之

 

 

 高校の時に岩城氏の本は何冊か読んだが、懐かしくなって又読んでしまった。

 

”コンチェルトを明治のころは「競走曲」と書いたらしい。本来はこの方が正しいのではないかとも思う。”

 

 

9.男役(中山可穂

 

 

 中山可穂ファンなのである。わりと新しめの作品で、「宝塚シリーズ」である。宝塚歌劇に関する知識が圧倒的に少ないため、わりとアッサリだったなぁという印象になってしまった。舞台に関するシーンはさすがと云うべきか、かなり迫力があった。

 

 

10.新訳 マクベスシェイクスピア

 

 

 いつか時間ができたらシェイクスピアを、などと思っていたが、ようやく一冊読んだ。読んで感じたことは、むしろ、この作話技術が、作話技術の初心なのであろう、ということだ。比喩と主題を絡ませる手法、アフォリズム、どれも原初の形という感じがして、むしろ新鮮でさえあった。古典音楽を聴くときに気持ちが似ている。

 

 

11.未必のマクベス(早瀬耕)

 

 

 これはなかなか面白い小説だが、簡単な小説ではない。ハードボイルドで、SFで、ミステリで、企業小説で、文学で、そして恋愛小説なのだった。こういう、「いろいろ突っ込んでみました」というタイプの小説が好きである。私はそれを勝手に「鍋小説」と読んでいるが、そういうやつです。おすすめです。

 

 

12.若い読者のためのアメリカ史(ジェームズ・ウエスト・デイヴィッドソン)

 

 

 このリストを見る限りまったく想像ができないのだが、2019年の読書テーマは「アメリ」なのだった。そういう意味では、テーマに沿った読書だった。内容はかなり多岐に渡るが、アメリカの通史としてよくまとまっている(長いけど)と思った。意外な記述も多く楽しめる。

 

 

”現代のイタリア料理はトマトがなければ成り立たないが、これはアメリカ産の野菜だ。”(p.49)

 

”1600年までに14の病原体が中央アメリカに、少なくとも17の病原体が南米に広がった。疫病+コンキスタドールによる暴行で、5000万〜9000万人の命が奪われたと見られる。”(p.51)

 

ヨーロッパ人にはアメリカ人の誰が金持ちで誰が貧乏人かわからない”(p.177)

 

ふたつの大きな考えがアメリカ史全体に響き渡り、ともに回転しながら、つねに戻ってくる。自由と平等だ。この2つは、1782年に初めてアメリカの国璽に刻まれたモットー「多数から成るひとつ」(E pluribus unum)を通じて、まさにこの国そのもののように、たがいに引き合う。われわれは自由だ、平等だ、ひとつだ。ふたつの言葉は何度も繰り返され、もはや当たり前のように受け止められている。”(p.439)

 

 

13.弱法師(中山可穂

 

 

 再々読くらいだが、何度読んでもいい。私はとくに「卒塔婆小町」が好きである。

 

 

14.グリフォンズ・ガーデン(早瀬耕)

 

 

「未必のマクベス」を読んで興味を持ったのでデビュー作であるこちらを読んだ。平成初期の作品だが、作風は「マクベス」とは随分違い、SFと哲学的な要素が強い。大枠として円環構造があり、二重の語りがお互いに言及し合うような形式だが、おそらく近い時期の小説として鈴木光司「リング」シリーズに近い問題意識を感じた。鈴木の「ループ」に出てくる仮想世界はここのDUAL WORLDの話に近い。聖書的な象徴が出てきたり、細かい書き込みに映像が浮かんでおもしろい。

 

 

そう、ぼくは言葉のない空間にいた。『世界の果てにも言葉はある』の対偶は、『言葉のないところには世界はない』だな、なんていう言葉遊びを考えていた。”(p.172)

 

 

15.プラネタリウムの外側(早瀬耕)

 

 

 

 早瀬耕が続く。「グリフォンズ・ガーデン」の後日譚として描かれた短編集。ポール・リクールの時間論(かじっただけだが)に近いものを感じた。「グリフォンズ・ガーデン」がデカルト懐疑主義に裏打ちされているとしたら、こちらは哲学の時計が少し進んだということなのかもしれない。

 

本当に、過去が現在を規定しているのだろうか。現在が過去を創作していると疑う余地はないのか。”(p.88)

 

 

16.私の話(鷺沢萠

 

 

 小説というかエッセイというか、ただ、鷺沢の文章を楽しみたい私にとってはそういう区分はもはやどうでもよかったりする。何といっても文章が良い。さらさらと心地よい。

 

 

17.薬物とセックス(溝口敦)

 

 

 Breaking Badというドラマにハマっていたので、少し薬物、とくに作中のキー・アイテムであるメタンフェタミンに興味が出て、読んでみた。

 

 

メタンフェタミンヒロポン、ホスピタンなどの商品名で(戦前の日本で)販売された。”

 

 

18.苦海浄土 わが水俣病石牟礼道子

 

 

 なぜ多くの人がこの本を20世紀で最も重要な本の一つとしてその名を挙げるのか、それを知りたいと思って手に取った。私なりの結論は、この作品が、おそらく最も純粋な形でのフィクションの形態、すなわち語り部の語る物語であり、それが20世紀においてはほとんど見られないのに、このように現れたから、ということではなかろうかと思っている。


 大学の時に「自然地理学」という授業を取っていて、震災の恐怖を伝える方法には何があるか、という話で「語り部」が紹介されていた。しかもそれは「偽の語り部」だった。小学生に津波の恐ろしさを語る人は、実はその津波が街を襲った時、まだ生まれていないのである。しかし、伝聞という形式を取らずに、自分が見聞きしたように語ることで、その効果を上げている。


 この本は、何かの目的のために書かれたのではないのかもしれないが、そんなことを思い出した。

 

 

海ばたにおるもんが、漁師が、おかしゅうしてめしのなんの食わるるか。わが獲ったぞんぶんの魚で一日三合の焼酎を毎日のむ。人間栄華はいろいろあるが、漁師の栄華は、こるがほかにはあるめいが。”(p.63)

 

独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れぬが、私の故郷にいまだ立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアミニズムとプレアミニズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。”(p.75)

 

 

19.悲しみの秘儀(若松英輔

 

 

 昨年(2018年)に読んだ「ベスト・エッセイ」の中に若松氏のエッセイがあり、興味を持ったので読んだ。エッセイ集だが、テーマは「悲しみ」である。引用が多く、言葉のコラージュのようなスタイルだが、読んでいて散漫な印象はなく、警句のように削ぎ落とされた地の文が冴えている。

 

想いを書くのではない。むしろ人は、書くことで自分が何を想っているのかを発見するのではないか。書くとは、単に自らの想いを文字に移し替える行為であるよりも、書かなければ知り得ない人生の意味に出会うことなのではないだろうか。そう感じるようになった。”(p.143)

 

 

20.医学の歴史(梶田昭)

 

 

 何となくここらあたりで医学の歴史を概観しておくことが必要である気がしたので、いくつか医学史の本を比べてみて、この一冊を買った。惹句にあった通り、著者の博覧強記ぶり、また、医学・生物学に止まらない言及(例えば丸山眞男の引用があることなど)が非常に面白く、どんどん読めた。大きな考えとして、著者は、医学というものは、先ず人間の自然治癒の能力を補うものであるというように考えているようだった。その発想に基づいて全編が書き上げられている。

 

 

ガリレイアリストテレスと聖書の両方に疑いを投げかけ、それによって、中世における知識の全体系を破壊した。”(p.173)

 

ハンターの晩年はまさに努力の日々だった。六時前に起き、九時まで解剖室で働いた。正午まで自宅で患者を診察し、それから往診に出かけた。四時になるとはじめてゆっくり食事をとり、講義をした。それから、その日の観察を秘書に筆記させた。深夜に家族がベッドに入ったあと、ハンターは何時間も仕事を続けた。かれは狭心症で死んだ。”(p.217)

 

”(ベルツの1901年のスピーチ)

 

私の見るところでは、西洋の科学の起源と本質に関して、日本ではしばしば間違った見解が行われている。科学は有機体であり、それが育ち、繁栄するには一定の気候、一定の環境が必要である。(この30年に西洋各国から来た教師たちは)科学の樹を育てる人たるべきであり、またそうなろうと思っていたのに、かれらは科学の果実を切り売りする人として扱われた。日本人は科学の成果を引き継ぐだけで満足し、その成果を生み出した精神を学ぼうとしない”(p.310)

 

 

21.言葉の羅針盤若松英輔

 

 

 

「悲しみの秘儀」がわりかし面白かったので続けて読んだ。

 

 

”人は、真の旅を求める。ほとんど本能的にそれを希求する。もし、抗しがたい力によって……世に言うレールに乗って……あるところへ到達したとしても人は、その地点から必ず、自分の旅を始めることになる。”(p.111)

 

22.新訂 孫子金谷治 訳注)

 

 

 マネジメントへの関心から、まあ、古典中の古典だし、読んでみるのもいいかと思って読んだ。参考になるかどうかはともかく、興味深く読めた。

 

”百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。”

 

 

23.ホワット・イフ?(ランドール・マンロー)

 

 

 小学生のとき、一時間図書館で好きに本を読んでいいという時間があった気がする。たしか、「空想科学読本」とかいう本があって、男子のあいだでわりに流行っていた。タケコプターを実際につけてみたら首が千切れるはずだ、みたいな馬鹿げた内容でみんな喜んでいた。私はクールでマセた小学生だったので、その時間、まんがの伝記などを読んでその手の本は読まなかった。

 

 この本は、その手の本にもっと科学的な厳密性を与えているように見えるが、根本のところの馬鹿さ加減は変わらない。しかし、どうも大人になってから好きになったようである。ゲラゲラ笑いながら読んだ。

 

 

”この2、3年間に生産されたハードディスクの体積は、オイルタンカー1隻をちょうど満たすくらいになる。このような量り方をすると、インターネットはオイルタンカー1隻よりも小さいということになる。”

 

 

”ナイアガラの滝は、広島に投下されたのと同じ規模の原爆が8時間に1個爆発しているのに匹敵するエネルギーを放出している。もうちょっと全体像を広げるためにお知らせすると、大草原を吹き渡るそよ風も、広島型原爆とほぼ等しい運動エネルギーをはらんでいる。”

 

 

24.夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録(V.E.フランクル

 

 

 夏は戦争のものを必ず一冊読むようにしている。今年はこれだった。非常に生々しく示唆に富む一冊だった。学生の時、アウシュヴィッツを訪ねたときのことを思い出しながら読んだ。

 

その時私の身をふるわし私を貫いた考えは、多くの思想家が叡智の極みとしてその生涯から生み出し、多くの詩人がそれについて歌ったあの真理を、生まれて始めてつくづくと味わったということであった。すなわち愛は結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理である。”(p.123)

 

スピノザはエチカの中で次のように言っている。「苦悩という情緒は明晰判断な表象をつくるや否や消失してしまうのである。」”(エチカ 5の3 「精神の力あるいは人間の自由について」)

 

 学者であったフランクルは、アウシュヴィッツにいるとき、「講演会の会場で喋っている自分」を思い浮かべて、苦悩を客観化したらしい。バーバルセラピー的な側面だが、私たちが日記を書いたり、愚痴を言ったりする理由かもしれない。

 

待っている仕事、あるいは待っている愛する人間、に対してもっている責任を意識した人間は、彼の生命を放棄することが決してできないのである。”(p.187)

 

 

25.バブル世代教師が語る 平成経済30年史(西村克仁)

 

 

 読んでいると懐かしさがこみ上げてきたのだが、それは当然で、私はこの著者の授業を高校生の時に受けていたのだった。私の社会を見て考える多くの部分を、著者の授業から学んだのだなと今になって思う。

 

 ふと思いついたが、日本という国をひとつの人格のようなものとして考えると、バブルの時代というのは、人生に数度はあるという、”モテ期”のようなものだったのではないだろうか。モテ期の最中にこれがモテ期だと気がつくことはなさそうだ。グローバル経済は、世界規模の恋愛シミュレーションゲームなのかもしれない。いま私たちの国が目指すべきは、再度のモテ期を目指すチョイ悪オヤジなどではないだろう。

 

祖父は当時時計を集めることが趣味で、『今も家にあるからあげるよ』と言われ期待して行ったら、どれもこれも『金色』だったので遠慮した。(男子)”(p.91)

 

 

26.マイパブリックとグランドレベル(田中元子)

 

 

 私の職場はまさにこの「グランドレベル」にあるので、ドンピシャな本だ。要するに、グランドレベルとは、建物の1Fのことである。そのグランドレベルが作り出す街の形がある。日本はグランドレベル後進国らしい。確かに、この本を読んでからいつも住んでいる街を見回すと、グランドレベルが死んでいる。

 

 著者が考える、生きているグランドレベルの三つの条件は、

 

”①風景として美しい ②ずっといたくなる感覚に包まれる ③多様なひとの存在が許されている”

 

 

27.グラン・ヴァカンス(飛浩隆

 

 

 久々に読んだSFだったが、やや難解であった。面白かったといえば面白かった。再読の必要がありそう。

 

 

28.市場の倫理 統治の倫理(ジェイン・ジェイコブズ

 

 

 途中若干飛ばし気味になった部分もあるが、非常に興味深く読んだ。市場と統治の倫理という、ものを考える軸は、現代においても有用であるように思える。とくに何かしらの社会問題を考える場合、その社会問題が問題化した原因というのをつきつめてみると、この市場と統治の倫理の混同に行き当たることが多い。

 

 訳者あとがき(p.447〜)から本書の内容を要約すると、

 

 

”①人間が必要なものを入手するには、縄張りから取得する(take)か、取引(trade)をする。前者は動物と同じ、後者は人間だけ。

②この二つの様式の対応が、統治の倫理(たとえば忠実)と市場の倫理(たとえば誠実)で、この二つは対立する。

③この二つを混同すると、「救いがたい腐敗」が生ずる。

④これを避けるには、統治者と商人を身分的に区別するカースト制を敷くか、または課題に応じていずれかを自覚的に選択するか、の二つに一つである。

⑤民主主義の下では身分制はとれず、したがって自覚的に選択することが必須。”

 

というあたりになるだろう。

 

”科学の道徳は市場の道徳で、官僚が依拠している統治の道徳ではない。”(p.103)

 

 

”強姦、あるいは相手の承認なしの結婚は性的奪取になる。売春、あるいはお金目当ての結婚は性的取引になる。しかし、相互の愛情に基づいたセックスは奪うことでも取引することでもない。実際には、愛は商業倫理や統治者倫理を掘り崩すことが多い。”(p.289)

 

 

29.高橋悠治 対談選(小沼純一編)

 

 

 いわゆる現代音楽にあまり詳しくなく、高橋悠治の演奏も、曲も今の所聴いたことがないのだが、この対談集はおもしろく読めた。音楽をやる身としても参考になることも色々と書いてあった。しかし、文人を兼ねるというか、ここまで教養の幅が深く広い音楽家も珍しいと思う。昔は結構いたのだろうか。

 

”高橋:ケージはサティについて論文も書いている。ベートーヴェンはハーモニーを基礎として音楽をつくったが、それはまちがっていて、サティとヴェーベルンが時間を基礎として音楽をつくった。これはまったく正しい。”(p.36)

 

”高橋:たとえばグレゴリオ聖歌ね。あれも伝統が一時絶えていて、十九世紀の終わりにソレームの修道院で、新しい伝統ができた。これはインチキな伝統で、正しい古代的リズムもなにもなくて、十九世紀的な、波の間に間に上ったり下ったりするような感情の動きみたいなものをリズムとして偽造するわけね。そういう偽造された伝統が新しい伝統として現在に到っているというようなことね。”(p.50)

 

 

 以下に挙げる二つの引用は、箇所は違うのだが、新しいアイデアが湧いてくるので並べて置いておこう。

 

 

”高橋:ナヴァホの儀式の歌の伝承は、非常に厳格で、昔は歌を間違ったヤツは殺してしまうとか、非常にきびしいわけね。……紙に書かれて始めて一語であり一句であって、吟遊詩人は、文字が読めるようになった途端に即興能力が衰えてだめになるわけだから。”(p.242)

 

 

 

”武満:いまの芸術家の役割というものは、本当に生活している人間全部が芸術家的な創造者になり得る時代までのかりそめのある一つの役割なのだ。ある意味で我々を非常に縛ってきた因習というか、特権的な美というものが失われて、理想主義的な言い方かもしれませんけれども、生活者すべてが本当の芸術家になる時代が来るまでのもので、芸術家なんていう存在がなくなれば一番いいわけですね。”(p.314)

 

 

 対談が行われたのは武満が存命のころだから、そこそこな昔ではあり(正確な年号をメモするのを忘れた)、武満の議論は文脈がわからない点もあるが、「生活者すべてが本当の芸術家になる時代」というのは、おそらく、テクノロジーの発達がそれを可能にするという前提に立っているはずである。ここで武満が予想していたのは、アマチュアリズムの隆盛なのだろうか?


 それと合わせて高橋の引用を考えると、高橋は、直接的ではないにしても、テクノロジーが発達(文字をテクノロジーと捉えるかどうかだが)することにより、芸術家の芸術的能力が衰えることを指摘している。


 この二つの引用が示すことは、テクノロジーによりアマチュアリズムは隆盛し、もしかすると生活者すべてが芸術家と呼べる時代が来るかもしれないが、その芸術家たちの能力は衰えている可能性がある、ということだろう。


 私は個人的には、前者は賛成だが、後者には疑問が残る。なぜなら、吟遊詩人の例にあるように、確かに人間の能力は衰えるが、新しいテクノロジーはそのぶん、新しい技術(ars)を創造する可能性があるからだ。

 


 
”高橋:グレン・グールドの話でさ、むずかしい箇所を練習するのにテレビやラジオをヴォリュームを上げてつけっぱなしにして、それを見ながらやるというのがあった。要するに、自分のからだに覚えこませるんだね。”(p.370)

 

 


30.テロリストのパラソル(藤原伊織

 

 

 大阪天満宮の古本市で買った。ミステリとしての仕掛けは特にどうこういうものはないのだけれど、ハードボイルドとして一級だ。昔からこういう男性像への憧れが自分の中にあるのかもしれない。自分とは対照的なんだけど、だからこそ憧れるというか。

 

 

殺むるときも かくなすらむか テロリスト 蒼きパラソル くるくる回すよ”(p.356)

 


31.コッペリア加納朋子

 

 

 加納朋子作品をそんなに読んだわけではないが、ファンである。中山可穂と並んで、自分が、「こういう文章を書きたいな」と思わせてくれる作家だ。文章の読みやすさと、さりげない品性と、見えにくいところにある心の機微の描写、少し過剰気味な自意識の語り手。すっと心に馴染んでくる文章である。

 

 

32.掃除婦のための手引き書(ルシア・ベルリン 岸本佐知子訳)

 

 間違いなく短編小説集なのだけれど、どれも基本的にルシア・ベルリンその人の人生に取材して書かれたものだから、何となく断片をつなぎ合わせてつくった長編小説のように読めなくもない。

 

 

母は変なことを考える人だった。人間の膝が逆向きに曲がったら、椅子ってどんな形になるかしら。もしイエス・キリスト電気椅子にかけられてたら? そしたらみんな、十字架のかわりに椅子を首から下げて歩きまわるんでしょうね。”(p.202)

 

 

33.クラリネット症候群(乾くるみ

 

 

 

 久々の乾くるみ作品。やられた

 

 

34.山の上の交響楽(中井紀夫

 

 

 短編集である。どうも「グラン・ヴァカンス」のような大じかけのSFよりも、本書のようなSFが好みのようである。大変楽しんで読んだ。

 

”それらが、記憶の層の深い場所から不意に驚くべき鮮やかさでよみがえる幼い日々の思い出のように、互いに呼び合い、響き合いながら、次々と現れてきた。もともとは日常のたわいない出来事でしかなかったものが、長い時間、記憶の海の底にしまいこまれていた、まさにそのことによって、他の事物や感情と思索と融通無碍に結び付き、濃密な意味の輝きを帯びて立ち現れてくるように、各モチーフが新しい文脈の中に置かれて、深い意味の光芒を放った。”

 

 標題作からの引用だが、ソナタ形式の、再現部の描写として今まで読んだ中でもっともすぐれた文章だと思う。「山の上の交響楽」のアイデア自体は、たぶん、マーラーの八番と、たしかドイツだかどこかの教会でやってる、演奏に何千年もかかる曲の話から来ているのではないかなと思う。

 

35.神様(川上弘美

 

 

「神様2011」のほうをどこかで読んだ気がするが、川上弘美作品は初めてであった。なるほど私好みの本だ。何というか、水のように物語がすっと入ってくる感じ。おもしろおかしいというのだろうか。

 

 

”「今日はもう消えることにしよう」赤とんぼが叔父の頭をすり抜けた。叔父はしばらく考え込んでいたが、小さく頷いてから、「私は神を信じる」ときっぱり言った。とたんに、叔父は還っていった。”(p.48)

 

 

 

 好きで何回も観ている、「フィールド・オブ・ドリームス」という映画になんとなく似ている感じがして気に入った一文。

 

 

36.ラヴェル(井上さつき)

 

 

 ラヴェルは、私にとって、変な言い方だが、「オールタイムベスト」な作曲家だ。初めてラヴェルを聴いた中学生の時(デュトワモントリオール響の”ボレロ”のCDだった)からこれまで、ずっと継続して好きな、唯一の作曲家かもしれない。

 

 フランスに留学している時、所属していた市民吹奏楽団の団員を捕まえて、「フランス人の作曲家といえば、誰?」という質問をよくぶつけたが、たいてい「ドビュッシー」という答えが返ってきて、どうしてラヴェルじゃないんだろう、と思っていたのだが、この本を読んで少しその疑問が解けた気がする。

 

 ラヴェル自身は疑いの余地のない愛国者(patriote)だったのであろうが、彼のふるまいは、もしかすると、フランス国家にとってみると、一途な愛情とは受け取られなかったのかもしれない。パリ音楽院での出来事や、海外でより評価されたということや、最たるものは、レジオン・ドヌール勲章の拒否だろう。ということもありながら、私にとってラヴェルは非常にフランス的であり、フランスが生んだ最高の作曲家だと思うし、フランス語並みに、フランスそのものであるとさえ思えるのである。

 

ラヴェルは、一見よそよそしく無口に見えたが、実際にはふざけるのが好きで、独特のユーモア・センスの持ち主だった。ダンディな人間の姿を好み、生涯を通じて、おしゃれで、身だしなみや服装に細心の注意を払っていた。”(p.25)

 

後年、彼はロザンタールに、《シェエラザード》には「いまでは書いたことを恥ずかしく思う部分もたくさんある。しかしこの作品には、二度と見つけられないものがある」と語った。”(p.61)

 

 

 ヴォーン・ウィリアムズによるラヴェルの思い出。

 

 

彼はブラームスチャイコフスキーをひとまとめにして「どちらも少々重い」とした。エルガーは「まったくメンデルスゾーン」で、彼自身の音楽は、「まったくシンプルで、ただのモーツァルト」だった。”(p.85)

 

 

 第一次世界大戦中、フランス音楽防衛国民同盟への参加を拒否したラヴェルの言。1916年。

 

 

フランスの作曲家にとって、外国の同業者の作品を組織的に無視すること、また、そうして国民的派閥を形成することは危険ですらあります。現在これほどさかんなわれわれの音楽芸術はすぐに衰退し、月並みな公式に閉じこもることになるでしょう。”(p.111)

 

 

 第一次世界大戦は、ナショナリズムの時代だった。ラヴェルは、パトリオットではあったが、ナショナリストにはなれなかった、変われなかったということなのかもしれない。

 

 

ラヴェルはウィーンで小さなバッグを二つ買い、小切手に署名したところ、女性の店主が、「《水の戯れ》や《オンディーヌ》を作曲なさったモーリス・ラヴェルさんですか? なんと光栄なことでしょう。代金をお支払いいただくわけにはいきません。どうぞウィーンの記念にお受け取りください」と言われ、パリではありえないと感激していたという。”(p.131)

 

 

 トスカニーニが「ボレロ」を速いテンポで演奏した際、ラヴェルは抗議したそうだ。

 

 

ラヴェルの叱責に対して、トスカニーニは「あなたは自分の音楽がわかっていない! こう演奏するしかないんです!」と言い返した。

 ラヴェルは、トスカニーニのように速く演奏すると、ボレロが陽気で民衆的になってしまうと実演してみて、「創作者と演奏者の闘争はもっとも深刻な問題のひとつです。ぼくはこれに関して妥協しませんよ。相手がトスカニーニであろうと」”(p.174)

 

 

 ラヴェルも凄いが、トスカニーニも凄い。

 

 

37.指揮者は何を考えているか(ジョン・マウチェリ)

 

 

 

 

 指揮者について指揮者が語る本はこれまでも読んできたが、自分を絶妙に突き放しているようでいて、自分についてのことを中心に書いてあるというあたりが、何となく指揮者的でよかった。

 

 

というのも指揮は、皆さんが考えているより大変な仕事であると同時に、それほど大したことのない仕事でもあるからだ。”(p.43)

 

 

彼は、オーケストラが指揮者に何を求めるのかということについて、非常にはっきりした考えを持っており、「青い空に一片の雲、といった類の話は指揮者にしてほしくない。長い短い、早い遅い、高い低いという指示で十分だ」と語った。”(p.54)

 

 

自分はスコアに書かれていることを実行しているだけだという指揮者は、真実を述べていないか、作曲者不在時の指揮者がなすべき本来の職務を理解していないかの、どちらかだ。”(p.125)

 

 

指揮者は翻訳者であり、著者ではない。”(p.174)

 

 

 

38.鶴見俊輔伝(黒川創

 

 

 

 こうして振り返ってみると2019年は伝記に始まり伝記に終わったわけだが、この伝記は読むのに一年くらいかかっている。ものすごく読み応えがあった。


 この伝記は、はじめ客観的な、詳細な記述だが、次第に筆者が顔をのぞかせてくる、面白い手法で書かれている。

 

 

半世紀を越え、これを読み、クリストファーは、父親が呼びかけてくる声を聞く。「私のように生きようとするな。私がなれなかったすべてのものになってほしい。私がしたくても決してできなかったこと、私がおそろしくてできなかったことをふくめて、そのすべてをしてみなさい。もしきみが、それがどういうことかさがしあてられるなら。世間が君に父にふさわしい息子であれという、そういう息子だけには決してならないようにしなさい。そういう息子はうんざりだ。私の求めるのは息子の道からはずれた息子だ。世間をおどろかせて、みなの見ている前で私の名をはずかしめるような息子になってほしい。それを私は見ていて、拍手をおくるだろう」鶴見俊輔「イシャウッド 小さな政治に光をあてたひと」での訳出による)”(p.543)