私的幸福論

使い切るとき

物事にはすべて始まりと終わりがある。当たり前のことだ。終わりは、必ずしもすべて哀しみで縁取られているわけではない。終わりを迎えるということが、それ自体が幸福になるということもある。 モノを使い切るということの幸福を知っているだろうか。私の日…

雨の音が聴こえるとき

数年前から、幸福とは何かということを、自分なりに考えてきた。私にとって考えるということは、書くということに他ならない。書くことで自分の考えを知り、文字に置き換えられた考えを操作して、また別の考えを見つける。幸福とは何かということについて考…

好きな音楽を聴いているとき

私の友人に西田くんというのがいる。中1のときからの友人だから、もうかれこれ17年くらいの付き合いになる。人生の半分以上というわけで、大した時間である。彼は、今ブリュッセルでクラシック・ギターを専門に学んでいて、プロの演奏家を目指している人間…

祈るとき

私は比較的「祈る」という言葉を頻繁に使う人間だと思う。実際よく祈る(人事部とかではないですよ)。自分のために祈ることもあるし、他人のために祈ることもある。日記にもよく「祈った」と書いてある。 私はキリスト教徒ではないけれど、中・高とキリスト…

日記を読み返しているとき

SNS全盛の現在にあって、わざわざ紙の帳面にペンで日記などを書きつけている人は、あまりいない。Twitterもある種の日記だし、利用する人が多くいるということは、人間には、何か根本的に、自分の生活や、その時々思ったり感じたりしたことを、何らかの形で…

元気のふしぎな性質

何の変哲もない表現が、よくよく考えてみると、思いがけない発見を齎すということが、まれにではあるが、ある。私はつい最近、ちょっとしたことをじっくり考えてしまった。「元気」って何だろう、という話だ。 誰かと何かの世間話をしていた拍子に、「いや、…

橋を渡るとき

橋を渡るということは、日常の風景といってもよいと思う。橋を渡ったことがないという人は、おそらくかなり少ない。私も橋を渡る。ただし毎日ではない。毎週日曜日、淀川に架かった大きな橋を渡って、枚方市から高槻市へ行く。大阪を知らない人には不明な話…

未来の楽しみを思い浮かべているとき

楽しいことを思い浮かべているあいだは、その人はやはり幸福であるといえるだろう。実際に、その時に何か楽しいことがなくても、思っているだけで幸せになれるものだ。しかしこの幸福についても、二つの種類があると思う。 ひとつは、過去の楽しかったことを…

手紙を書いているとき

私は一応大学でコミュニケーションという、わかったかわからないようなものについて五年ほど(四年で終わらなかった、大学が好きすぎて)学んでいたので、人と人とのコミュニケーションについては多少の知見がある、と自分では思っている。 手紙という通信手…

独りで酒を飲んでいるとき

二十五歳を過ぎた頃から独りで酒を飲みに行くようになった。純粋にひとりだ。当然ナンパなどしないし、マスターとも喋らないし、隣席と仲良くなることもない。ただ、独りで酒を飲み、つまみを食べ、そしてここが重要なのだが、本を読む。 行儀が良くないこと…

銭湯に行ったとき

年に何回か銭湯に行くことがある。休みの日にふらりと行くこともあるし、山登りの帰りに行くこともあるし、友人と何となく行くこともある。そんなに頻繁に行く方ではない。でも私は、銭湯というものが好きである。時々行くくらいがちょうど良いのかもしれな…

寿司を食べているとき

何と言っても人間は美味しいものを食べているときがいちばん幸福で、満たされていると思う。しかし興味深いのは、「美味しいもの」の定義が人によってかなり違うということだ。これは、好きな音楽とか、好きな人の顔のタイプとかより、よほど根源的で、生物…

誰かに贈り物をするとき

べつに死ぬほどお金持ちで、お金が掃いて捨てるほどあるというわけではなく、むしろ月末になると財布の中身が心配になることの方が多いのだが、生意気にも、人に贈り物をしたりするのが好きである。 これは誰かに教えられたわけでも、誰かやたらと私に贈り物…

私的幸福論 はじめに

アランの「幸福論」という本がある。私は、自分が幸福とは反対側の絶望の只中にいると思っている時にこの本を手に取った。 そこに書かれていたのは、決して、幸福になるための方法だとか、心の持ちようだとか、そういった類の言葉ではなかった。 しかし、ア…