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村上春樹新作 『木野』 を読む

というわけで、読んでみました。いち村上春樹ファンとしては新作が出たらすぐに読みたいところ。

 

その男はいつも同じ席に座った。カウンターのいちばん奥のスツールだ。 

 

お、来ましたね、という感じ。スツールですよスツール。

私が初めて村上春樹を読んだのは16歳くらいのときだったと思いますが、その時に「スツールって何やろ」と思ったのを覚えています。まあ腰かけるんだから椅子だろうなとは思っていましたが、調べてみたら本当に椅子だったので、椅子と書けばいいのに、なんて無粋なことを思ったものです。でもやっぱりスツールはスツールと書かなくちゃダメですよね。

 

タイトル「木野」って、どんだけ手抜きやねん!と思うかもしれませんけど、これは主人公の名前です。

どのような主人公かというと、スポーツ用品の会社で営業をしていた男で、奥さんもいたんだけど、同僚に寝取られちゃいます。しかもその現場を目撃してしまうという、なんとも週刊誌顔負けなシチュエーション・・・。

他の村上春樹作品同様、木野には子供もいませんですし、離婚して、会社を辞めて、伯母が持っていた喫茶店を継いで、バーを始めるというわけです。そのバーの名前が「木野」。

でもよく考えてみれば、『風の歌を聴け』のジェイズ・バーも、ジェイの名前がそのまんまま店の名前になっていますよね。

 

で、この「木野」にはもうちょっと意味があるような気がします。

あんまり書いちゃうと、読んだ人に申し訳ないので書きませんが、この物語はどうも、人間と人間のお話というよりかは、動物とか自然が重要なポイントになるお話のようなのですね。作中には、猫とか蛇とかが、ある種の神話的な象徴として登場します。しかし、最後に出てくる柳の木の描写がどうもひっかかるのです。

主人公の木野はある日バーの常連客から唐突に予言を受けて、店を閉めて旅に出ます。そのルートが四国→九州。四国といえば『海辺のカフカ』を思い出す方も多いのではと思います。

そういえば『海辺のカフカ』にもなんか、蛇とか石とかが出てきたような・・・少なくとも石が重要なアイテムであったことは間違いないですね。あと、もちろん猫、それにカラス。

そういう点では『海辺のカフカ』を髣髴とさせる部分もありますし、女を失ったと言う点では『ねじまき鳥クロニクル』や『国境の南、太陽の西』を、バーに現れるやくざっぽい二人組みからは、あのブルックス・ブラザーズのスーツをびりびりに引き裂いた世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を連想させるものがあります。

 

私が抱いた疑問は「この小説はいつかかれたのだろう?」ということでした。

新作というからには最近書かれたのでしょうが、そうだとすると、これは新しい長編につながる短編小説なのではないかという気がします。少なくとも、この物語はこの状態で完成しているとは言いにくいです。可能性としては、いくつかの過去の長編の「ならし」みたいので書かれたのか、あるいは新しい長編の「ならし」として書かれたか、そのどちらかという感じがします。

 

ですから、これだけ読んだだけでは納得しない方もおられるのではないかな、という感じがいたします。といっても、これだけで十分何か感じられる小説でしたが。

 

文章についてですが、なんか、もう、あまりに洗練されてきたなという感じがしなくもない。抑制された比喩に、三人称で語られる澄み切った描写。装飾がないんです。『スプートニクの恋人』の作者と同じ人が書いたとはちょっと思えない。作曲家の晩年のシンフォニーみたいです。

作曲家と言ってもいろいろなタイプがあって、例えばブラームスなんかは最初からかなり完成度の高いものを書いていて(そのために1番を書くのに20年くらいかかった)、4つしかシンフォニーは書かなかったけど、そのどれにも強い個性がはっきりと読み取れます。

ベートーヴェンは一つ一つ新しい要素が出てくるような、まさに革新者で、しかも最後の交響曲では合唱を持ち出した上、最後の楽章でそれまでの楽章を否定するという、なんかもう、ぶっ飛んだ作曲家です。来るぞ、お、こんなこともできんのか、という風に成長して、最後には「あ、行っちゃったんだ」というような感じの作曲家です。

ドヴォルジャーク村上春樹と比較するのに一番適しているかもしれません。

初期の作品ではブラームスの影響があまりに強く、6,7番あたりは、彼自身の持つスラヴ的な要素と、ブラームスの曲の構造がうまく組み合わさったシンフォニーと言えます。8番で彼は飛躍します。個人的には8番が、作曲技法とかの点では、最もドヴォルジャークらしい曲のような気がします。

ベートーヴェンとは違いますが、ドヴォルジャークも最後のシンフォニー、つまり9番のシンフォニーである種の新境地に達します。ちょっと、洗練されすぎているのです。無駄がないんです。曲そのものでいったら、7番、8番あたりで無駄のない楽譜を書いていたのですが、楽器の使い方という点では、9番の洗練度は段違いです。無駄がなさすぎるがゆえに、一部不可解と捉えられることもあります。一発しかないシンバルの音とか、二楽章しか出番のないチューバ(かわいそう!)、一瞬しかないピッコロのフレーズ、ティンパニみたいな動きをするバストロンボーン、などなど。

 

しかし、そういった「作曲の文体」をついに手に入れたドヴォルジャークの最高傑作は、やっぱり9番だなと思うのです。洗練されて、無駄をそぎ落とした音で、あんなにも美しい音楽が書けるわけです。そう考えると、村上春樹の最高傑作というのは、実はこれから生まれるのではないか? と思ってしまうわけです。

 

とまあ、期待も込めつつ、かなり個人的に思うことをだらだらと書きましたが、そんな風に思わせてくれる短編です。