しょっぱい小説 重松清 「とんび」

 

高校生の時担任の教師に薦められて「その日のまえに」を読んだのが私と重松清の出会いだった。

その時ちょうど村上春樹の「ノルウェイの森」を読んでいて、「その日のまえに」とは随分違う作風なのだけれど、どちらも結局は人の死を、それも愛する人の死を扱っているという点で共通していて、比べながら読んだ記憶がある。

この二作では全く逆の死が描かれている。

ノルウェイの森」も名作だが、「その日のまえに」も疑うことのない名作だと思っている。

大学の時には友人に薦められて「流星ワゴン」を読んだ。これも強く印象に残っている。

 

 

で、「とんび」である。私にとっては三つ目の重松作品だ。

重松清という人は、ある意味ではこれといった作風がない人なのかもしれない。ただ共通しているのは、何か物事や現象を追うのではなくて、あるいは問題を提起するのではなくて、ただただ人間を描いた作品ばかりだということになる。

 

「とんび」はしょっぱい小説だった。

 

その「しょっぱい」とはどういうことなのか。

父と息子の物語である。これは多くの人の弱点をつくテーマだと思う。私が男性だからそうなのかもしれない。父と息子という主題、それだけで胸が締め付けられてしまう。

誰にでも父親はいる。百パーセントいる。存在している。だからこの作品は、例外なく普遍的なテーマになってくる。

普遍的で、しかも、まっとうな小説だった。はっきり言って、この小説に目新しい物語はない。なのに心を打つ。よくある父子ものの話だ。涙を誘う物語だ。当然ながらその中にはやり切れない死があったり、子の成長があったり反発があったり、巣立ちというものがある。

 

けれどこの小説がすばらしいのは、「泣けない」小説だからだ。

涙が出そうになるけれど、それを食いしばりたくなるような切なさがある小説なのだ。

だから、口の中に涙を噛み締めた味が残る。そのしょっぱさが、読んだ後にいつまでも残るような小説なのだ。

 

世の中に泣ける小説や映画はたくさんある。

それを売りにしてしまっているものがある。トレイラーでわざわざ赤外線撮影した観客の泣いている姿を使ったり、本の帯にでかでかと「泣ける」と書くものがある。

そういうのを見るにつけ私は残念な気持ちになる。

履いて捨てるほどある。

泣けるということは、もてはやすようなものなのだろうか?

流さない涙というものがある。私はそれはとても価値のある涙だと思っている。

「とんび」はそういう種類の小説だと思う。もちろん、「泣ける」と謳われた物語の中にもすばらしい作品はあるのだろう。だがこの小説は、「泣けない」という点において、かなり独特の価値を持った小説のように思っている。