読むということについて

 

 読むという行為は、おそらく書くこと以上に、日常的に行われていることなのだが、深く考え始めると不思議な行為であることが分かってくる。私たちは読みながら(あるいは書きながら、でもあるのだが)自分自身の中にある内なる存在、その声を聴いている。それは紛れもなく、音にならぬもうひとつの声なのだ。

 私たちは読む時、その奥にあるものの存在を常に感じている。それは厳密には、書き手や作家の存在や、あるいはその人物が置かれている状況・経歴・性別、といった情報ではない。私が思うに、本当に良い書き手は、自らの意思、自らの思考、自らの表現したいこと、これらを読み手に伝えるという、書くことの第一義と思われていることを、飛び越えてしまうことがある。彼ら・彼女らは書くことによって自らの意識を超越してしまう。その時、書き手というものは、もはやただひとりのシャーマンというか、媒介に過ぎなくなってくる。

 その超越してしまった何か、書き手が真に表現してしまったもの、それは言葉という形をとってはいるが、実は言葉にならないもののように思える。言葉は仮の姿である。

「内なる声」は、その仮の姿を浮かび上がらせ、それを象徴として私たちの頭の中に再現する。リズム、長さ、語彙、コントラスト……すべての文章的要素が絡み合い、言葉にならぬその本質は解放される。それを可能にするのが内なる声の役割である。本質が解き放たれた時、私たちは、いわゆる「感動」を経験することになる。

 読むということは、このような感動を得ることが出来る行為のひとつだと思う。そしてそれは計算によって出来るものではない。感動しようと思って感動することは出来ない。また、させようと思ってできるものかどうか、これについては議論が分かれるだろう。いずれにせよ、読むことで感動したいと思ったら、自分の内なる声を磨き、その声に素直に従うことだと思う。読むということは、究極的に言ってしまえば、自分の意識と、その声の間の対話であるとも言える。

 

※次回は「海外で生活することについて」です。