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外国語を学ぶということについて

 

 マレーシアで生まれて初めてトランジットを経験した時のことである。クアラルンプールの空港で、六時間後のフライトまで何もすることがなく、私はソファに深く身を沈めてただぼおっとしていた。右から左へ、色々な顔の人がゆく。色々な言葉が聞こえる。その多くの言葉は、私には全くわからない。私は、世界がどうしてこんな風につながったのか、不思議だった。
 しかし、そういう時代である。外国語、それも数ヶ国語の習得が、日本という、世界の隅と言っても差し支えない国にさえ求められつつある時代である。果たして外国語を学ぶということにはどんな意味があるだろうか? それは、単に時代に適応していくための武器を拵えるという行為なのだろうか?

 現代のリンガ・フランカはもはや何の疑いもなく英語だと言うことができる。百年前はその地位にあったのはフランス語だった。今でもオリンピックの表彰式などを見ていると、フランス語での紹介が英語の前にあることに気が付くだろう。滝川クリステルがIOCの総会でフランス語を披露したことも記憶に新しい。フランス語は共通語としての地位を失いつつあるが、いまだに特別な地位を占めている言語ではある。とはいえ、現実的なレベルでの国際語は間違いなく英語だ。

 巷には英語の教科書、あるいは教科書と言えるかどうか微妙な類の本が溢れている。それは究極的にいえば、英語でのコミュニケーションを目標としてつくられた本なのだろう。確かに、実際的には、普通、外国語の習得と言った場合、コミュニケーションこそが目標である。言うまでもない当然のことである。

 しかし私は、外国語の習得に別の目的を見出している。母国語以外の言語を獲得する過程こそが重要だと思っている。その過程で私たちはほとんど無意識に母国語との比較をはじめる。共通する点、しない点を見つける。そのひとつひとつに新鮮な驚きがある。複雑な構造を持つ文の意味がわかったり、何気なく理解していた文章や単語の見えない法則を見破った時、それはほとんど感動ともいえる体験になるだろう。

 それは、何かに似てはいないだろうか。たとえば数学なんかもそうだろう。教師の言わなかった解法で方程式が解けたとき、それをひらめいたとき、そこには勉強という堅苦しい言葉から離れた、清新な感動があるはずである。もっと別のことでもいい。他人の知らない一面をのぞいた時、自分だけが知っているその人の美質を見抜いた時に現れる感動、その秘密の愉しさ、これを恋と表現する人もいる。

 外国語を学ぶことは、恋をすることに似ている、と言ったら言い過ぎだろうか。しかしそこには確かに恋に似た苦しみがある。恋に似た煩わしさがある。恋に似た喜びと快感がある。そういった苦労の積み重ねの上に最終目標であるところのコミュニケーションが成り立つ。恋は飛び級ができないと誰かが言っていた。確かにそうだなと私も思う。程度の差があるにしても、そこにあるのはほとんど地道な努力に違いない。外国語を操るためにも、素朴で地味な努力が必要なのは言うまでもない。


 そうか、世界をつなげたのは恋なんだな、と私はクアラルンプールで見当違いな納得をした。