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何かを発見するとき

 一人で旅をしはじめたのはいつだったろうか。一人でどこかへ旅をすると、新しい何かを自分に付け加えられたような気持ちになれる瞬間がある。私たちはなぜ旅をすることで閃いたり、気づいたり、見つけたりした気になれるのだろうか?

 

 生まれて初めて、一人で旅と呼べるほどの長い距離を移動したのは、おそらく高校1年生の夏だったと思う。それは夏休みの真ん中のときで、吹奏楽部の合宿が兵庫県のハチ高原であった。近畿地方にお住まいの方であれば、合宿所、あるいはスキー場として馴染みのある場所かもしれない。ふつう、ここは高原だから、バスで行くものである。私のいたクラブも朝に学校に集合して、そこから全員バスに乗り込んで合宿所へ向かうことになっていた。しかし私はそのとき、ちょっと特殊な事情があって、2日遅れて参加することになっていた。

 

 クラブの顧問は、高原の最寄り駅である八鹿(ようか)駅まで電車でくるように私に言った。そこまで行けば、あとは顧問が車で連れて行ってくれるという。彼は八鹿駅までの乗り継ぎを記したメモをくれた。親切な男だった。私も彼も「駅すぱあと」というウェブサービスを知らなかった。

 

 私は一人で旅に出た。といっても、五時間程度電車に乗っただけのことだ。しかしこの道中には様々なことが起こった。姫路駅での石原裕次郎似の老人との出会い、JR駅員との格闘、つながらない携帯電話……などなど、珍道中とも言えるエピソードが盛りだくさんだったのだが、それはまたいつかお話しよう。その旅で私が発見したのは、ある風景だった。

 

 それは兵庫県の西部に広がる風景だった。田んぼ、農協、動かない車、森、泳げそうにない川、錆びた鉄の塊。そういったものが規則的に目に入ってきた。本など読む人間ではなかったから、私は二両編成のワンマン列車からじっとその景色を眺めていた。誤解を恐れずに言えば、ただの田舎の景色である。

 

 その時私が思ったのは、「これが兵庫なのか」ということである。高校1年生の私にとって、兵庫県とはまず神戸のことであり、あとは中華街と異人館と甲子園くらいのイメージしかなかった。仕方のないことかもしれない。県庁所在地を覚えるというあの謎のテストのおかげで、私にとって他県=県庁所在地という知識しかなかったのだろう。

 とにかくその味気ない景色は私の心を打った。ああ、これも兵庫なんだ。兵庫にもこういうところがあるんだ、と。それは紛れもない発見であり、新鮮な知識が頭のなかに流れてきた瞬間であった。

 

 私がもしみんなと一緒にバスに乗ってハチ高原まで行っていたら、おそらくこのような発見をすることはなかっただろう。よく言われることだが、違う道を行けば、違うものが見える。通勤ルートを時々変えてみなさいと言う人もいる。たしかに、それはそれでひとつの見解ではあるだろう。しかし私の結論はそれではない。

 

 何かを思いつくために、あるいは発見するために、メソッドがあるとは思えない。ヒントくらいはあるのかもしれない。しかし、何か発見をしよう、新しい閃きを手にしよう、と思った時点でダメな気がする。脳みそはツンデレである。もし私の脳がほしいものを正直にくれるならいまごろ大変なことになっているはずだ。だから、閃こうと思って閃くのはちょっと無理があると思うのだ。意図的に新しいものを見ようとして通勤ルートなど変えた場合、その時点で脳のはたらきは一層鈍くなっているはずなのだ。もちろん、気分転換として道を変えるというのは別の話だ。

 

 私が思うに、脱線や偶然というものを意識せず、そこそこぼんやりして生きるということが大切なのではないだろうか。そういうぼけっとした意識の状態こそ、何か新鮮なものをとらえるまなざしを準備しているような気がするのである。たとえ同じ道をあるいたとしても。

 

 一人旅をするとそういう状態になりやすいと思う。今の私は、ほとんど本を読むために旅をしているようなものなのだが、それでも心がかなりぼんやりしてくる。そういうときに限ってとてつもない傑作のアイデアが浮かぶ。というのは嘘だ。もしそうだったら私はいまごろウハウハでひとりでぼんやり鈍行に八時間も乗ったりしている余裕はないはずだ。

 でも、友人の誕生日に用意する気の利いたプレゼントのアイデアくらいは浮かんでくるものだ。それだけでも旅には十分な価値があると思う。