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良い演奏のためには

 むかし外国でアマチュア吹奏楽団に所属していたことがある。ひょんなことから見つけたその市民楽団に私は入り、たったひとりの日本人、というかたったひとりの外国人として演奏活動を行っていた。当然のことながら、最初はかなりびびりながら練習に行っていた。その国の言葉を完璧に話せるわけでもないのにそんなところへ飛び込んだのだからこれは仕方ない。しかし私は演奏することに激しく飢えていた。私が人生で勇気を振り絞った瞬間は二つしかない。ひとつは中学二年生の時に初恋の相手に告白したことと、もうひとつはこの異国の吹奏楽団に入団したことだ。ひとりの外国人という状況で不愉快なことも少なくなかったが、どちらかと言えば楽しくやれた。そしてその場所で私はとても大切なことを学んだ。外国人だけのコミュニティに所属することの意義? 日本人が世界でサバイバルする知恵? 語学学校や大学では学べない外国語のスキル? ノンノン、そんなものはどうでもよい。私が学んだのは、よい演奏のためには何が必要かという、音楽家にとって百億円以上の価値があることだった。

 その吹奏楽団は、はっきり言ってあまり良い雰囲気ではなかった。まずみんながそんなに仲良くない。しかもドがつくほど下手くそである。これはあなたもご存知かもしれないが、日本のアマチュア吹奏楽団の質はたぶん世界一である。なぜか? 部活動だ。そもそも部活動というシステム自体がユニヴァーサルなものではない。だが日本ではその部活動を徹底的にやる傾向がある。全国大会に行く吹奏楽部の練習などを見たら世界中のアマチュア奏者が仰天するだろう。そのクオリティ、その量、なによりその情熱の注ぎ方に。賛否両論ある話題ではあるが、少なくとも日本の演奏者の水準はプロフェッショナルではなくアマチュアが底を支えているという現実は疑いようもない。日本ほど世帯にピアノが普及している国も珍しいと聞いたこともある。

 だから、その楽団が下手くそというよりかは、私が恵まれた環境――中高吹奏楽部、大学ではサークルのオーケストラ――で演奏をしすぎていたと言う方が正しいかもしれない。その吹奏楽団はいわゆる社会人団体で、メインは中高年のプレイヤーで、下は高校生くらいの子供もいた。平日の、仕事が終わったあとで、それぞれ車やバスで川沿いに建っている謎の練習場に集まり、ざーっと練習してさぁ疲れた帰ろうかという具合である。すごくさっぱりしている。しかし上手くはならない。

 だが、私が思うに、その方がずっと良いのである。普段からあまり団員が仲良しでは、本当に大事な時に、本当に大事な団結力――つまり本番の演奏に必要なこと――が出せないということがままある。何故か。演奏以外のことで信頼しあったり、極端に依存し合う友情めいたものを築いてしまうと、演奏の「場のスリル」とでも言うようなものがなくなってしまうのだ。演奏中に人間の関係を基盤にした場を形成してはいけない。私はそういった演奏がいかに味気なく、ぬるいものに終始するかということを、日本の大学で演奏していた時に嫌というほど見てきていたし、それに参加してもいた。演奏とは、音楽の名の下に行われるべきであり、それのみが演奏者を結ぶ唯一の絆であるべきなのだ。

 私がそのことを学んだのは、その外国の吹奏楽団の、とある本番でのことだった。普段とくに仲が良いわけでもない、クールな関係にある人々が、ひとつの目標に向かって熱く力を合わせていた。舞台の上だけである。いいオッサンオバハンがである。私はものすごく驚いた。舞台に座って楽器を構えている自分の肌を、響きがちりちりと焼いていくのが分かった。それは日本では経験したことのない熱だった。ああ、こいつら、下手やけど、分かってるんや、と私は思ったのである。そしてむしろ、自分が知らなかったのだと感じたのだ。よい演奏に必要な最後のエッセンスが何かということを。

 私は外国だからそれができて、日本人のグループにはこういう熱が出せないとか、日本の吹奏楽は技術偏重だとか、(良く言われるように)「音楽は心だ」みたいなことを言いたいわけではない。どこの国だろうとどんな編成であろうとそれはできる。ただ大切なのは「場」をつくるということだ。あるいは、逆説的ではあるが「場」をつくりすぎないということだ。それに必要なのは、間違いなく優れた指導者と指揮者の存在である。良いオーケストラや吹奏楽団に必要なのは、適度な「場」を作ることを理解している指導者と、演奏者の繊細な対立と融和を作り出すことのできる指揮者なのだ。最もシンプルな表現を使えば、仲が良いからと言って良い演奏ができるというわけではないということだ。そして、これが最も重要な教訓なのだが、たとえとろけるように団員同士が仲良しであっても、本番で「場」のスリルを作るクレバーさがあれば、素晴らしい演奏は必ずできる。そういうことを私は覚えた。

 だから、悲しいことではあるが、青春ドラマは音楽の本質たりえないと私は思っている。音楽の名の下に。それがはじまりであり、終わりである。なんてことを書きながら、おまえはあんな小説(https://i.crunchers.jp/data/work/5035)を書きやがって、と思われるかもしれない。いや、まさにそうなのだ。激しい矛盾を抱えながら音楽の小説を書いている。それもまた愉しい。