アラン幸福論 5.憂鬱

 

 昔のことだが、腎臓結石で苦しんでいる友人と話したことがある。彼はひどく落ち込んでいた。こういった種類の病気は人を悲しくするものだ。私がそのことを言うと、彼はそれに同意した。そこで私はこう結論づけた。

「こういう病気が人を悲しくさせる、きみはそのことを知っているのだろう。ならば私は、きみが悲しんでいることにまったく驚かないし、きみの機嫌を取ってやる必要もないわけだ」

 この論理は彼を心の底から笑わせた。これは決して小さなことではない。少々滑稽な形ではあるが、私は重要なことを言ったつもりだ。そしてその重要なことは、往々にして不幸な人々が理解していないことなのだ。

 

 深い悲しみというものは、いつも体の病的な状態からやってくる。こころの痛みが病気でない限り、思っているよりも早くそれは消えていく。そして、疲労とか結石が私たちの考えを悪化させるものでない限り、不幸について考えるということは、私達を苦しめるのではなくて、驚かせてくれるものである。

 多くの人々はこのことを否定する。彼らは、自分が苦しむのは、自分が不幸について考えるためだと思っている。私は認めよう。確かに、何らかのイメージが爪や棘のように私たちを苦しめるということはある。

 

 では、ここで憂鬱という病について考えてみよう。私達は、憂鬱な状態にある人々が、どんな考え方をしても悲しい理由を探し当ててしまうということを知っている。どんな言葉をかけても彼らは傷ついてしまう。もし同情したら、彼らは侮辱されたと感じるし、もし同情しなかったら、自分には友だちがいないと言い出し、世界でひとりぼっちなのだと言うだろう。このような思索の激しさは、病を不愉快な状態にする一方である。彼らの中で議論があって、悲しいことの理由が正しいとされてしまうと、彼らは美食家のように自分の悲しみを何度も何度も味わうことになる。

 しかしながら、彼らは私達にひとつな豊かなイメージをもたらしてくれる。それは、深く悲しむすべての人間についてのイメージだ。彼らにとって確かなことは、彼らの悲しみは病であるということだ。そしてそれは万人に言うことができる。苦痛が悪化してしまうのは、私達が苦痛について考えすぎるからであり、それはいわば傷口を触ってしまうようなものなのだ。

 

 情熱が激怒に変わってしまうこの狂気から解放されるためには、自分に言い聞かせなければならない。つまり、悲しみとは病気であると。しかしそれは病気なのだから、こころの痛みも腹痛のように扱うことができる、と。憂鬱になると、私達はある種の茫然自失に達するだろう。しかし腹痛だと思えばそのうちに心が休まる。このようにして対峙すべき悲しみと向き合う。それが祈りが目指してきたものだ

 全知全能の存在の前で、理解できない威厳の前で、計り知れない正義を前にして、信仰心の厚い人は考えることをあきらめた。祈ることによって、人はある種のアヘン――もちろん良い意味でだが――を自分に与えることができる。そのアヘンは、不幸を数えるということから私たちを引き離してくれるものなのだ。