あまりに個人的な書評 村上春樹著 風の歌を聴け

 

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

 

村上春樹著 『風の歌を聴け講談社 p.7

 

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

 

この文章から私の読書は始まった。

いまからおよそ10年ほど前のことだが、高校生だった私は偶然にも村上春樹のデビュー作を手に取ったのだった。

 

高校一年生の夏休み。友達と大阪で遊ぶ約束があって電車に乗ろうとして、財布に一万円しかないことに気がついた。たぶん、盆休みに里帰りしたとき、祖父に貰った諭吉だったのだろう。それで私は「このままでは電車に乗れない!」と思ったのだ。今考えれば駅でいくらでも崩せたでしょうに。

そういうわけで、冷房の効いた駅前の小さな本屋(潰れて今はもう100円ショップになってしまった)に入って、何か本でも買おうと思ったのだ。なかなか殊勝な心がけだった。
しかし、それまで本と言えばゲームの攻略本か、夏休みの読書感想文用のものくらいしか読んだ事がなかった。「こころ」とか「模倣犯」とか。

何か小説でも読んでみようかな……と思って文芸のコーナーに行った。分厚い本は無理だと思ったので、並んでいる本の中でいちばん薄い文庫本を棚から抜き取った。

 

それが「風の歌を聴け」だった。

そして冒頭の一文に出会う。
立ち読みのまま一冊の本を読み終えるということを初めて経験した。無論待ち合わせには遅刻して友人にこっぴどく叱られた。

 

この小説は要約が難しい本である。海辺の街を舞台に若い「僕」と「鼠」が友達になり、ひと夏を共に過ごし、別れていくまでが描かれている、それだけの話だ。ぶっちゃけ、何かが起こるわけでもないし、何かを教えてくれるわけでもない。
そういう本を読んだのは初めてのことだった。でも、それは新しい種類の心地よさだった。漫画とかゲームとか、あるいは当時打ち込んでいた楽器の演奏には無い種類の快感を初めて覚えたのだった。
あ、本を読むのって面白いんだな。
そういう風に感じさせてくれた、初めての小説である。

 

よく、作家はデビュー作に全部書きたいことが詰まっているという風な話を聞く。それは確かにそうかもしれないなと思う。高校三年間をかけて、それまで刊行されていた村上の小説を全て読み、それ以降も繰り返し読み続けているが、やはりこの作品が全てだ、という気がしなくもない。
もちろん、そんなことはないんですけどね。
でもこれは「核」なんだろうなと思ってしまう。
これが始まりであり、終わりではないのかなと。

 

と、いうわけで、まだ村上春樹の作品を一つも読んだ事がないという方、苦手そうなので敬遠している方、「ノルウェイの森」を読んで嫌いになった方。
すべてにおすすめしたいのが「風の歌を聴け」である。
もしかしたらこの本があなたの人生を変えてくれるかもしれない。
実際、この本によって私は読書という趣味を得て、それまでにはなかった色彩を人生に与える事ができたのだと思っている。
そしてそれはたぶん、死ぬまで消えない大切なものをもたらしてくれた経験だったのだろうなと思う。
人によってはそれが紫式部だったりガルシア・マルケスだったり夢野久作だったりプルーストだったり三島由紀夫だったりカフカだったり麻耶雄嵩だったりするのだろうけど、私にとっては村上春樹だったんだな、ということをしみじみと感じている。

 

読書の秋もきょうの暑さを終えて、いよいよ深まってきそうな感じなので、この機会に村上春樹の作品ひとつひとつをご紹介していこうと思っている。今回は全然内容に触れていないけど、次回からはきちんと触れようと思います。