村上春樹の三段跳び 「1973年のピンボール」

 

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)

 

 


 毎年この時期、つまり涼しくなってまわりに風邪ひきが増えたり台風が列島を直撃したりする季節になると、日本中、いや世界中のハルキストは一斉にそわそわしはじめる。
 そう、ノーベル文学賞である。私は村上春樹を読み始めただいたい九年くらい前からずっと発表日(今年は10月10日だとか)の発表時間はパソコンのディスプレイの前にかじりついている。
 毎年毎年「一番手」と報道されているわけだが、果たして彼の存命中に賞が与えられるのだろうか。村上自身は「べつにどうでもいい」と思っていそうだが、ファンからするとやはり気になるところである。

 さて、今回は村上春樹「1973年のピンボール」について語ろう。前作「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞した村上が書いた二作目の小説である。そしてこれは世間では「鼠三部作」の二作目ということになっている。
 だいたい、トリロジーの二作目というのは難しい。ロード・オブ・ザ・リングも「二つの塔」はなんか暗かったし戦いがよくわかんなかったし……。みたいな感じだ。村上春樹の本を読んだ、という人物と話していても、なかなかこの作品が話題になることはない。「地味」な作品という印象をお持ちの方もいらっしゃるのではないだろうか。売り上げなどのデータは解らないが、デビュー作や次作「羊をめぐる冒険」に比べて小さいことは想像に難くない。
 果たしてこの作品は、注目に値しない作品なのだろうか? そのことについて考えてみよう。

 

出口と入り口

 

入り口があって出口がある。大抵のものはそんな風にできている。郵便ポスト、電気掃除機、動物園、ソースさし。もちろんそうでないものもある。例えば鼠取り。(『1973年のピンボール講談社 p.14)


 短い格言風(アフォリズム)の文章だ。入り口と出口。実はこの文章は、村上作品のすべてに通じるテーマでもある。
 ピンボール以後の村上作品を先に読み、そのあとでこの部分を読む読者は、この文章がひとつの記念碑的な役割を持っていることに気がつく。

    

パラレル

 次に見たいのは、この作品の構造である。
 プロローグを別にして、この作品は25の章で構成されている。章の長さにはばらつきがあるが、この構成にも実は重要な鍵が隠されている。
 それは「パラレル」であるということだ。後の村上の長編小説ではおきまりとなった手法だが、章ごとに主人公が交代するという仕組みをここで初めて取り入れている。この構成が最も効果的に使われたのは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」であるが、そこまで洗練されていないものの、「ピンボール」で既に、「僕」と「鼠」の物語を交錯させようと試みている。


 

僕は井戸が好きだ。井戸を見るたびに石を放り込んでみる。小石が深い井戸の水面を打つ音ほど心の休まるものはない。(同上 p.19)

 

 

 井戸も後続の作品によく見られるモチーフの一つだ。のちに「ねじまき鳥クロニクル」という大作を村上は書き上げるが、そこでは井戸、そしてそれに宿命的に連なる水のイメージが最も重要な主題として取り上げられている。

 そして水ということに関して言えば、今作中で最も印象的なシーンは、池のほとりでの場面でもある。

 

 

「哲学の義務は」と僕はカントを引用した。「誤解によって生じた幻想を除去することにある。……配電盤よ貯水池の底に安らかに眠れ」「投げて」「ん?」「配電盤よ」僕は右腕を思い切りバックスイングさせてから、配電盤を四十五度の角度で力いっぱい放り投げた。配電盤は雨の中を見事な弧を描いて飛び、水面を打った。そして波紋がゆっくりと広がり、僕たちの足もとにまでやってきた。「素晴らしいお祈りだったわ」「あなたが作ったの?」「もちろん」と僕は言った。そして僕たち三人は犬のようにぐしょぬれになったまま、よりそって貯水池を眺めつづけた。「どのくらい深いの?」と一人が訊ねた。「おそろしく深い」と僕は答えた。……(同上 p.103-104)

 

ピンボール

 いくつかのポイントに絞ってこの作品を見てきたが、実は(おそろしいことに)本文中に端的にこの作品を解説してしまっている文章がある。

 

配電盤、砂場、貯水池、ゴルフ・コース、セーターの綻び、そしてピンボール……どこまで行けばいいのだろうと思う。脈絡のないバラバラのカードを抱えたまま僕は途方に暮れていた。一刻も早く風呂に入り、ビールを飲み、煙草とカントを持って暖かいベッドに潜り込みたかった。何故僕は闇の中を走り続けるのだろう? 五十台のピンボール・マシーン、それはあまりにも馬鹿げている。夢だ。それも実体のない夢だ。それでも3フリッパーの「スペースシップ」は僕を呼び続けていた。(同上 p.153)



 かつてシューマンベートーヴェン交響曲第四番を「二人の巨人の間に挟まれたギリシアの乙女」と評した。長大で英雄的な三番(エロイカ)と斬新で革命的な五番(運命)という二人の「巨人」に挟まれたこの上なく美しい作品、という意味だろう。

風の歌を聴け」という強い香りを放つ作品と、「羊をめぐる冒険」という謎と比喩に満ちた作品の間に挟まれて、この作品は不思議な爽やかさを感じさせる小説のように思える。
 私は村上の作品は個人的にどう読むかというのがとても大切なのではないかと思っている。あるいはこれはすべての小説について言えることかもしれない。いずれにせよ、そういう考え方も実を言うと村上の作品から学んだ。
 その観点で言うと、「1973年のピンボール」は個人的に好きな作品だ。「風の歌を聴け」を読んですぐにこれを読んだ。はじめて読んだとき、こんなかっこいい小説があるのかと思った。「僕」の翻訳会社の仕事も素敵に思えたし、何より双子のガールフレンドがうらやましくて仕方がなかった。


 そして、もし一つ付け加えることがあるとすれば、個人的な感想を抜きにしてもこの作品は注目に値すべきだと思う。なぜなら、この作品には世界的な小説家として数々の名作を後に送り出す村上の、「書きたいこと」が具体的な形を取って現れているように思えるからだ。同時代的な読み方では決してないのだが、村上の作品をすべて読み、そのあとで「ピンボール」に戻って来るとあらためてそう思う。これは村上にとって「ステップ」だったのだなと思う。そして次作「羊をめぐる冒険」で彼はひとつ上の世界へと華麗に「ジャンプ」するわけだ。