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書くということについて 2 だれかに当たります

 

 私たちはアナロジーにまみれて生きている。今日もあなたは誰かと話すときに何かのアナロジーを使ったかもしれない。アナロジーを使えば、銀座のホステスを口説くこととナショナルクライアントから仕事を取ってくることは同じことになるし、新聞記者の仕事は塾講師のそれと同じになってしまう。アナロジーにはそのような魔法が潜んでいる。そしてそのアナロジーの鎖を限りなく伸ばして行けば、人殺しの行為と命を救う行為は同じになってしまうかもしれない。
 確かにアナロジーは、二つの行為に共通する部分を説明する時に力を発揮する。しかし、その共通部分は限られているはずだ。それはあくまで共通部分であって、等しいわけでも、包含関係にあるわけでもないはずだ。要するにその二つが空集合ではないことを確認するためだけに使われるべきレトリックであるはずだ。
 それなのに、時に人は、その共通部分の面積がlittleではなくa littleであるように錯覚してしまう。多くの誤解はアナロジーを発端としている気さえする。それゆえに私は、このエッセイを始めるにあたって、まずこのような注意書きを付したいと思う。アナロジーは危険であると。

 戒めた上で、私はひとつのアナロジーを展開したいと思う。つまり、音楽における演奏と、小説を発表することについての類似性を考えてみたいのだ。

 音楽を聴いていて不思議に思うことがある。「なぜ今日はこの曲がこんなに染みてくるのだろう?」という経験がある方はおられるだろう。そういうことは頻繁にある。何百回と聴いたブラームスのCDだって、秋の夕方に聴けば特別に寂しく聴こえるかもしれない。ひどく酔っぱらった状態でマーラーを聴けば腹が立つかもしれない。春の朝にドビュッシーを聴けばだれかれ構わずキスをしたくなるかもしれない。
 この種類の不思議な出来事について、行為者側である音楽家同士ではよく話題になる。「どうしてあの演奏はあんなにウケたんだろうね」とか、「なんであの演奏が評価されなかったんだろう」とかいった類いの話だ。音楽家の多くは、その日に貰った拍手を聴けば、お客さんの評価というのは解ってしまうものだ。それに敏感な連中でもある。
 演奏というのは天文学的な数の変数の掛け合わせによって評価が変わってくる。オーケストラの状態や指揮者の腕前といった、行為者側の明確な要素もあるが、実は、聴き手の状態によって演奏がどう届くかというのはかなり変わってくるのだ。聴き手が前の日の晩に何を食べたか、誰と聴きに来ているのか、あるいは失恋した直後なのか幸せの絶頂にいるのか、そんなことで音が心の中でどう響くかということは変わってくる。だから、ある人にとっては人生に一度きりしかないくらい素晴らしい演奏でも、ある人にとっては雑音に過ぎなかったということも可能性としてはありえるのだ。
 それゆえに私は、音楽は(あるいは音楽に限らないかもしれないが)乱反射的な芸術だと思っている。どう響くかは、誰にも予想ができない。ごくまれに奇跡のような演奏ができることもあればその逆もある。それはある種の賭けでもある。ゲームのルールとしては当然だが、賭け金が上がれば上がるほど賭けはスリリングになってくる。音楽家はそれの中毒患者と言えるかもしれない。個人的な感想を言えば、音楽は時間と空間を材料にした複雑な芸術であるが故に、変数がきわめて多いような気がしている。

 ここで危険なアナロジーを試みてみたい。演奏する事は、書いた小説を発表することに似ている。書かれた言葉は、誰にどのように届くかはわからない。それは小高い丘の上から見下ろした街に向かって、目を瞑って拾った石を投げつけることに似ている。必ずだれかに当たってしまう。当たった人の息の根を止めてしまうくらい鋭い石かもしれない。病んだ人を更に病ませる深刻な石かもしれない。怒りだけを残す傲慢な石かもしれない。しかし一つだけ確実に言えることは、誰もが奇跡を祈りながら演奏しているということだ。奇跡を祈りながら書いたものを発表しているということだ。もし握った石のうちの99パーセントが価値のない石だったとしても、残りの1パーセントはダイヤモンドに変わる可能性を持つ原石であることを祈りながら今日も投げ続けている。そしてその石が届いた人に幸せが訪れるように祈っている。

 私には、小説が乱反射的な芸術であるかどうかは分からない。それゆえに、このアナロジーがどのくらい妥当かも分からない。しかし、書く事も、演奏する事も、いずれにせよ祈りという強い意志の現れであるということは、小さな共通部分に違いないと思っている。