中山可穂の原点 『猫背の王子』

 

 

 

 正月、インフルで寝込んでいる間にようやく読んだ一作。


 わたしは大抵、気になった作家がいたらそのデビュー作をなるべく早く読むことにしている。しかし中山可穂の場合、デビュー作になんとなく手が伸びず(時間をまたいだ三部作であると知っていたので)、後回し後回しになってしまっていた。今回、三部作をまとめて揃えたので、何の気兼ねもなく読み始めたというわけである。

 

『猫背の王子』が出版されたのは1993年、今からもう20年以上前のことである。

 

 物語は主人公が「自分とセックスする夢を見る」ところから始まる。


 なんとも言えぬ始まり方だが、王寺ミチルという、中山可穂作品の中で最大の人気を誇る主人公の登場シーンとしてはふさわしいといえるかもしれない。


 ミチルは劇団の演出家であり、才能豊かな女優でもある。例によってレズビアンであり、少年と見間違われるような容姿をしていて、父から継いだ放蕩の血を体に滾らせている――つまり、稀代の女たらしである。


 もうこのへんの設定はこちらとしては慣れたものであるが、これがデビュー作であることを冷静に考えてみると、むしろ、これがひな形だったのだなと感心してしまう。

 

 さて、文章も展開も、やはり後々の中山作品に比べると正直「未熟」と思うようなところが(偉そうに言って申し訳ないですが)多々ある。

 

 たとえば各章のはじまりなんかは、その日のスタートから書き出してあって、まるで日記を読んでいるようで、ちょっとごつごつした印象を受ける。

 

 しかし、中山はあとがきで述べているが、文庫化する際も、手を入れることはせず、「あえてそのまま」掲載することを選んだそうだ。

 

 それはたぶん、この作品の持つエネルギーをそのまま残したいと中山が望んだからだと思われる。

 

 そのエネルギーとは何か?


 人によっては、デビュー作にのみ宿る勢いのようなもの、と言うかもしれない。


 しかしそれでは漠然としすぎている。


 わたしにはその正体が分かる。


 その正体とは、中山が文章や構成の洗練よりも優先したこの作品のエネルギーとは、

 

「演出過剰」である。

 

 わたしはこの作品を読んで初めて、今まで読んできた中山可穂作品がなぜあんなにもドラマチックなのかを理解することができた。


 要するに、中山というのは、演出家なのである。


 だからナイフを鏡に突き立てたりもするし(猫背の王子)、
 バラ園がまるごと川に流れたりもするし(隅田川)、
 乳製品売り場をアメックスのカードでまるごと買い占める主婦が現れたり(鶴)するのである。


 そういう、印象的な場面をいくつも書いてこれたのは、芝居の世界での経験というものがあってのことなのだろうな、と得心したわけだ。

 

 そしてこの『猫背の王子』の中には、そういう演出過剰な場面がいくつも散りばめられている。


 脈絡、という言葉を持ち出すと、やや散漫気味なイベントが多いかもしれないが、王寺ミチルという主人公がプレイヤーとなったある種のRPGをプレイしているような気持ちにもなる。


 ミチルと同じように呼吸して、感動して、泣いて、怒って、絶望して、這い上がって、そして千秋楽へと向かっていく。そんな時間が楽しめる小説だ。

 

 それにしても、この小説は終わり方がなかなか渋い。
 なぜ渋いのか? これは是非読んで確かめていただきたい。