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ある不安について ルース・オゼキ著 あるときの物語(A Tale for the Time Being)

小説を書くという人が、ぜひ薦めたいと思う小説は、本当はその人が書きたかったと願うような小説ではないか。私はそのように疑っている。実際、今から私があなたに薦めようとしているこの小説は、私が書きたかった種類の小説なのだ。

 

3.11の時、私はフランスに居た。

異国の地で私は津波と爆発する原子力発電所の映像を見た。

その時に覚えた不思議な感覚は、私の中でずっと引っかかっていた。

それを言葉では表せずにいた。

 

 

 

この小説では、その感覚が表現されている、と私は勝手に思っている。

 

 

去年の秋か冬くらいに、ネットでたまたまこの小説のことを知った。単純に「おもしろそうだな」と思った。日系カナダ人が日本について書いた、震災に関係する、それも禅に絡んでいるらしいと知って、私はKindle英語版を購入した。

しばらく英語で読んでいたが諦め、今年の春すぎに日本語訳があると知って、図書館で借りて読んだ。

 

カナダに住んでいる作家のルースは、海岸で何かを拾う。それは日本の高校生の女の子が書いた日記だった。3.11後の海岸には、これから日本のガレキが流れて来ると言われていた。

 

その少女ナオの日記と、日記を拾ったルースの物語が交互に積み重ねられてゆく。

もちろん焦点になるのは、そのナオという少女が一体何者なのか、そして彼女が生きているのかどうかということだ。謎の解明に向かって、「一応」物語は進んでゆく。

 

物語は大きすぎるテーマを扱っているように思えるかもしれない。

日本のイジメや、カナダの環境問題に関する記述はまだしも、物語は第二次世界大戦道元の思想へ傾いてゆき、最後には量子論が登場する。これらは興味を持つ人が多そうなテーマではある。

 

ここまで書くと堅苦しそうな小説に思われるかもしれないし、実際退屈するような場面も少なくはない。しかし、この小説はミステリとして捉える事も可能かもしれない。実はそこに、この小説のおもしろさが潜んでいると私は考える。

 

それはつまり、簡単に言えばだまされてしまうということだ。そして物語の終盤でだまされて初めて、私は3.11の時に感じた奇妙な感覚を知ることができた。

 

それは「ズレ」だった。そのズレから来る不安、実在に対する不安がその正体だった。

 

フランスで3.11の映像を見た時、(あるいは日本にいた多くの人もそうなのかもしれないが)それは現実のものとは思えなかった。フランスは揺れなかったし、停電になったりすることもなかった。平凡な日常がただ過ぎて行った。そんな中にあって、PCのディスプレイの中で繰り広げられる地獄を信じることができなかった。

 

それに、時差があった。

 

その時に私が感じたリアリティに対する懐疑は、おそらくルース・オゼキも共有していたのだろうと思う。

 

 

というようなことを、ルース・オゼキは壮大な物語の中で表現してしまった。私がいつか書きたいと思っていた小説のような気がしてならない。そしてそう思わせてくれるような小説は、やはり良い小説であると思う。

 

もう夏休みも終わりに近づいているが、これは盆休みに読むのが最適な小説であると思う。日本の盆休みは、分ちがたく戦争の記憶と結びついている。というか、結びついていなくてはならないという気もする。ナオと同じ、中学生や高校生の読者にも扉を開いている小説だろう。