孤独という状態は人間にとって必要か?

 人間は思考する生き物である。絶滅を免れ生き残ってきた生物には、それなりに論理的に説明できる様々な理由があるはずである。たとえば、極度の熱に耐える外皮を持っていたとか、酸素のない環境でも繁殖できたとか、そういった、後代から見て納得のできる理由だ。

 

 そして人間は、もし「その次」の生物が存在するとすれば、おそらく思考することで生存競争を勝ち抜いた、という風に分析されるだろう。その思考のために、孤独という状態は必要かどうか、と冒頭の問いを書き換えても良い。

 

 思考を発展するために必要なものは対話だ。ここに疑問の余地はないと思う。あるいは、ある思考を定着させるために必要な行為と言ってもいいかもしれない。多くの人は、おそらく無自覚なままで、そうやって思考を発展させている。似た考えの人と話していれば、その考えはより強固になるだろう。異なった考えの人と話をすれば、考えは広がっていくだろう。どちらが良く、どちらが悪いということではなく、一長一短であると考えて良い。

 

 しかしここには、一つの問題というか、事情があるということを認めなくてはならない。というのは、他人との対話でアウトプットされる思考とは、「よそ行き」の思考であることを避けられないということだ。これは、人間がコミュニケーションを必要とする生物、すなわち、社会的な生活を前提として生存している生物であることと関係している。つまり、他人との対話で発展できる思考は、ある種の平準化、あるいは極端化を避けて通ることができないのだ。

 

 人間が多数の生物の種の中で、危機を乗り越えて生き延び、発展してきたように、人間社会の中でも、生き残る人間と、滅んでゆく人間がいる。個人が生き残ってゆくためには、やはり最初と同じ論理で、他とは違う、つまり死を逃れることができる思考を持つことが必要である。なぜなら人間の特徴とは思考することであるからだ。では、特徴的な思考を身につけるには、どうすれば良いのだろう?

 

 先ほども述べたように、思考を発展させるために必要な行為は、対話に他ならない。しかし、対話とは、必ずしも他人と行うものであろうか? 他人とお喋りすることが、あるいは手紙を交換することだけが対話ではない。人間は、自己と対話することができる。しかし、自己との対話とは、決して簡単なことではない。方法はたったの二つで、読んで、書くということで、誰もが行っていることのように思えるが、実際には難しい。

 

 なぜなら、孤独が必要だからだ。そして、孤独を本当に耐えることができる人は、ひどく少ないように思える。人は孤独では生きて行けないからだ。このジレンマを乗り越えられる人が、一体どれだけいるだろうか。しかし、独立した、特徴を備えた、幅広く、そして強固な思考を手に入れるためには、孤独という状態が絶対に必要である。ゆえに、自らの絶滅に恐怖を抱くものだけが、孤独に耐えることができるのである。