舛添氏の辞任から学べること

 この間浅野史郎が「ひるおび!」で、舛添知事の辞任に関連して、「知事選のあり方が知事の質を左右する」というようなことを言っていた。文脈としては、舛添云々というよりかは、青島幸男が大した選挙戦もせずいわばクールに都知事になって、その結果任期途中で辞めたことを批判する文脈だったと思う。

 

 浅野曰く、選挙期間を通じて有権者と直に向き合う、試練の目で晒されることが重要なのだと。また、再選される際には、選挙期間でまた知事への思いを新たにするという。青島を批判する文脈から離れてみると、実に納得できる話である。浅野は試練の期間である選挙戦を、むしろ元気をもらうのだ、という風に表現していた。

 

 これは何事にも共通して言えることのように思える。何かを成す前に、あらかじめ含まれているものがあるのだということだ。


 仕事でも、最近そう思うことが多い。塾だと、成績が上がるか上がらないかという、あるいは合格するか否かという、極めて明瞭な質の指標がある。

 

 それを左右するのは、もちろん、講師の質だったり、勉強する環境だったり、本人のやる気だったり、ということが言われがちである。


 しかし最近思うのは、「どういうストーリーを経て塾に入ったか」というのが結構重要な気がするのだ。それが浅野の言と、多少重ならないでもない。


 勉強を始める前から勝負が決まっているというか、「こうなりたい」「この目標を突破したい」という想いを強く持って入ってくる生徒、これをうまく誘導してやれば、めったなことがない限り成績は上がる。たいていの生徒はそういう想いを持っているものだ。しかし、その気持ちというのはシャボン玉くらいデリケートなものだから、親や学校や塾などが容易に潰してしまうことができてしまう。なるべくなめらかに、本人の望む勉強に接続してあげることができれば、こちらのだいたいの仕事は終わりである。

 

 

 おそらく音楽に関しても同じことが言えて、これも前から思っているが、一回目の合奏でほとんど決まってしまう。本番が一年後でも三か月後でも、一回目の合奏の質、そこを指揮者がどうマネージするか、どう演出するか、どうプレゼンテーションするかで、仕上がりは全然違ってくる、と私は思っている。もっといえば、合奏前の空気に成功の予感とそうでない予感とが含まれているものなのである。それをうまく抽出できたら、これもやはり仕事の半分は終わりである。


百里を行くものは九十里を半ばとす」という格言があって、私はこれを好んで引用するものだが、今回の浅野の話には納得せざるを得なかった。考えてみれば、この格言は、今まで書いてきたことの正反対のことであるように思える。矛盾する二つの見解、ものごとに対する、ものごとを成功に導く方法に関する逆の見方を持っているのも悪くないだろう。そういうわけなので、舛添氏の後任都知事が誰になるかより、どのように選挙戦が展開されるのかということに注視したい。そこの空気に何が含まれているのか、読み取ってみたいと思う。