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稀有な書 村岡崇光著 私のヴィア・ドロローサ

 

 よくよく考えてみると、私が過ごした中学校、高等学校は、いわゆる中高一貫の私立校で、キリスト教主義の教育というものを標榜していた。
 在学中、キリスト教的な象徴は校内のいたるところに存在したし、週に二度礼拝があった。宗教教育の授業もあった。その授業の一環で、プロテスタントの教会にも何回か行った。何なら私は宗教委員というのをやっていて、礼拝の司会みたいなこともしたことがある。
 しかし、私は結局、洗礼も受けていないし、いわゆる社会人となった今、日曜日の朝に礼拝に行ったりはしない。キリスト教教育の結果、どのようになったか、人格がどうなのか、そういったことは検証のしようがない。私の中高出身の者が、その他の学校出身の人間にくらべて、やたらと人格がすぐれているとも思わない。
 ではその6年間(正確には大学も含むので10年ということになるが)が私に残したものとは何だったのだろうか? そう自問することがある。
 答えは単純で、聖書だ。今でも私のこの狭いワンルームマンションにある小さな書架には、新共同訳の聖書が置かれている。
 
 村岡崇光という人は、あまり有名ではないと思う。少なくとも、頻繁に目にする名前ではない。聖書学者としてはかなり有名だが、そもそも私たちの日常に聖書学なるものが介入してくる余地はほとんどない。
 村岡は、第二次世界大戦のあいだに日本軍が行ったことの責任を果たそうとしている人である。具体的にいえば、日本が侵攻したアジアの国々へ、年に数ヶ月、無料で授業をしに行っている。ヘブライ語の授業であったり、聖書学の専門的な授業である。歴史を論じに行っているわけではなく、あくまで専門の仕事をボランティアで行っているのだ。それがどれほど困難なことであるかは想像に難くない。
 正直、戦争の責任を果たす、ということが私にはわからない。謝罪をすることなのか、金を払うことなのか、あるいは歴史の教科書にそれを記すことなのか、あまりに多くの議論がありすぎて、整理することができない。外国で暮らしていた時(そこは日本が侵略した場所ではなかったが)に、そのことについてずいぶん考えた。だが、結論めいたものは出なかった。
 あるいは、そういった責任はまったくないのだ、という意見もあるだろう。そもそも日本は侵略などしていないのだ、あの戦争は仕方がなかったのだ、という意見。むしろ、私たちが日々目にするのは、その類の意見であることが多いような気がする。あるいは、そういう本がたくさん売られているような気がする。ということは、そういう本を買う人がたくさんいるのだろうなということを想像することができる。
 だからこそ村岡という人は、自分の人生の限られた時間を、そのような行為に捧げているのだと思う。「日本が右傾化している」ということを実証する術はない。感覚でしかない。しかしそれでも、村岡のような人物が、この稀有な書を記さずにはいられなかったということが、その証左なのではないだろうか。
 
 この本を読んで、このような活動をしている人がいるということに非常に感銘を受けた。だからといって、私自身にできることはなく、日々の仕事を全うすることくらいしかない。
 それでも私にできることがあるとするならば、おそらく、今のところは、聖書を読むことなのだろうと思っている。