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楽しむための訓練

 

 小説や絵画や音楽といった芸術作品でも、スポーツをすることでも、スポーツの観戦でも、あるいは学問でも、はたまた人生そのものでも良いのだが、ものごとを「楽しむ」ということは、容易に思えて、案外そうでもないものである。ということを最近よく考える。

 

 たとえば、「味」というもの――言うまでもなく五感のひとつで、それは本能的なものに属すると思われがちではあるが――を例に取ってみても、そう言えるのではないか。


 ワインという飲み物がある。こう言っては失礼だが、ワインを初めて飲んだ時から、「これは美味い」と思える人は、あまりいないはずだ。フランス人がどうかはわからないが、少なくともこの日本においては、ワインを初めて飲む機会というのはそう早くないはずで、初めて口にしたときは、苦いとかまずいとか、どちらかといえばそういう印象を持つ人が多いだろう。ところが、先輩に薦められたりとか、何となく気分でとか、とにかくワインを飲む回数が増えていくと、それなりに美味しさがわかってくる。私の場合は、ワインなんてものはあんまり美味しくない酒だと思っていたのだが、人生のある時期、毎晩その美味くないワインを飲んでいた。そこでたまたま、チーズを食べながら一緒にワインを飲んだ。そこで初めて、「ああ、こういう美味さなのか」と得心がいった。それ以来、ワインを飲む時には、食べ合わせを気にするようになった。ワインというのはそういう飲み物なのだ。

 

 ただ、これにしても、じゃあ、最初から誰かが「ワインの飲み方」みたいなものを教えてくれたとして、それで果たしてワインの美味しさに辿り着いたかどうかというと、どうも自信がない。単純に、ワインを美味いと言っている誰かがいて、「本当に美味いのかなあ」と半信半疑でいるうちに、自分なりに美味しさを見つけたということなのだ。

 

 もっと極端な例を言えば、煙草はどうだろう。煙草を初めて吸うとき「これは美味い、今後も是非吸いたい」などと思う人がいたら相当、狂っている。ただむせ返るだけなのだから。煙草の美味さというものも、食べ合わせではないが、「吸い合わせ」の時間なり場所なりがわかってこないと理解できない種類のものだ。

 

 大切なのは、たぶん「これは良い」みたいに言う他者がいるということ。それと、何が何だかわからないけれど、回数を重ねるということなのではないかと思っている。

 

 小説を面白いと感じる心も、似たようなものかもしれない。
 世の中には面白い小説と面白くない小説がある。それは、人の感じ方によって規定される部分もあると思うが、それだけではない。経験というものも考慮に入れるべきではないだろうか。今日、あなたが面白くないと思った小説を、死ぬまで面白くないと思うかどうかというと、それは保証できない。十年後、他に色々な本を経てきたあとだと、面白い感じるかもしれない。そういうことはよくある。

 

 でも、面白くないと思いながらも読み通すことは、実はけっこう重要だと思っている。
 あなたにもそんな本が、音楽が、料理がないだろうか。別に興味もないのに誘われた音楽会のチケット。知り合いに読めと言われた難解な現代小説。実は苦手だが、そうは言えず笑顔で頬張った恋人の得意料理……。「無駄な時間を過ごした」「別のものを食えばよかった」そう思うかもしれない。だがそれらの経験は確実に堆積していくものだ。私はそういうものごとは、感性の体力を鍛えてくれるものだと思っている。そう捉えはじめた時から、人は老いるのを止める。

 

 楽しむためには、それなりの「訓練」が必要なのだ。
 逆に言えば、お手軽に楽しめてしまうものに興味はない。
 人生そのものも、人生を楽しむための訓練なのかもしれない。