真に創造的なこととは

 クリエイティブという言葉が昔から体の中のどこかの部分に引っかかっているような感じがする。私はどうもそういう細かい、比較的どうでもいいことを多少気にする性質らしいのだが、とにかくクリエイティブ、という言葉を聞いたり読んだりすると、「これは一体何だろう」と考え込んでしまうのである。

 

 職業的に「クリエーティブ」という語彙を使うことに関して、いわば名詞としてのクリエイティブ(あるいはクリエーティブ、クリエイティヴ、etc)は、私のその、言語的アレルギーの中枢には引っかからない。たとえば電通とか博報堂とかに行ってエレベーターに乗ると、「第2クリエーティブ局」とかいう部署の名前が書いてあったりする。そういうのは構わないと思うし、職業的に「クリエーター」とか「クリエーティブ」を名乗る存在があることは承知している。

 

 私が問題にしているのは、語の本来の意味、つまり品詞的に言えば形容詞としてのcreative(fr:créatif,ve)のほうである。

 

 たとえば何かの行為を「クリエイティブである」と評価する。

 たとえば人物を描写するときに「クリエイティブな人だ」と評価する。

 どうもその形容詞が引っかかる。クリエイティブという言葉は、何かの行為や、人物を形容するのに適切な言葉ではない気がするのである。

 私は今、あくまで日本語(カタカナ語)での用法を考えているのであって、英語、あるいはフランス語、他の何でもいいが、crea-という語彙での用法は、一切考慮していない。もしかすると、英語的表現としてのクリエイティブにはしっくりくるのかもしれないが、外国語の文章でcreativeという語彙を見かけることはあまりないような気がするのである。

 

 その原因を突き止めるために、私はこのクリエイティブという語を自分なりに深く考えてみることにした。とりあえずフランス語をとっかかりにして考えてみる。

 フランス語のcréatif(クレアティフ)という形容詞は、英語のcreativeにほとんど置き換え可能な言葉だと思う。私がcréatif(あるいはcreative)という語を目にして一番初めに想起することは、écrire(=書く)という動詞だ。これがたとえばイタリア語だと、scrivereという動詞になる。ところが英語だと、crのスペルが消滅して、writeになってしまう、つまり、英語話者や、ロマンス系の言語に触れたことのない者にとっては、私が今何を書いているのかサッパリ解らないと思うのだが、簡単に言うと、「creativeという形容詞には書くという動詞が隠れている」ということなのだ。

 

 英語にもラテン系の語彙は残っていて、subscribe(登録する)とか、describe(描写する)にはわずかだがscr-の語感が残っているようだ。これがフランス語だとéc-に置換される。フランス語ではラテン語からsが消滅することは良く見られる。一例を挙げると、英語のschool(学校 羅:スコラ)はécole(エコール、学校)になるように。

 

 少し脱線したが、要するに、私がcreativeという単語を聞いたときに、どうしても、そこに何やら「書く」イメージの影がちらつくということなのである。それで、よくよく考えてみると、このことはわりと当たっている。というか、クリエイティブという語彙が示すのは、いろいろすっ飛ばして端的に言えば、書くということなのではないかと思うのである。

 

 なぜ書くことがクリエイティブなのかと言えば、そもそもクリエイティブの名詞形である、creationのことを考えてみるといい。クリエイションとはすなわち、神による天地創造のことを指す言葉だ。そして『創世記』のはじめにはこうある。

 

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(『創世記』第一章より)

 

引用元:”口語訳聖書”(http://bible.salterrae.net/kougo/html/genesis.html

 

 神がどのようにして光を創った(createした)かが、創世記には明確に記されている。神は「光あれ」と言ったのだ。すなわち言葉が光を生んだ。あるいは、このあとの天地創造のすべての創造物は、神の言葉から創られたものだ。

 もし創世記を、神を否定する観点から捉えたとき、純粋に科学的に、言葉から創られるものを考えてみたとき、それはおそらく書物になると思うし、創世記における神の天地創造とは、歴史の始まりを書こうとしたということ、そのことを示しているのではないだろうか。

 私はこのことが、créatifとécrireに共通するcr-というアルファベットの並びと、どうしても関係がないとは思えないのである。

 

 だから、何かを書いているわけではない人のことを「クリエイティブな人」と言われると、どうしても、うーん、となってしまうし、そもそもクリエイティブという言葉は、神にしか許されない言葉なのではないかと思ってしまう。

 そして神はおそらく、言葉を綴るように美しく、かつ容易にこの世界を創り上げたに違いないのだ。

 

 もし人間に、真に創造的な(creative)な行為があるとすれば、それは神を真似た、書くという行為に他ならないと思うのである。