島がミステリー 多島斗志之著「不思議島」

 


 私はこのブログでいろいろな書籍を紹介してきたが、なぜそんなものを書くのかということを、一度、改めて考えてみたいと思う。新年でもあることだし。

 

 私は比較的読書をする方だと思う。統計を取ったわけではないし、実際そういった統計は存在するのだろうが、今手元にないのでわからないが、おそらく同年代の人に比べれば、本を読んでいる方だと思う。しかし月に数冊程度で、決して多い方ではないだろう。

 

 読書家(本をある程度愛好する人のことをこう呼ぶとすれば)が直面する問題がある。

 

 私は死ぬまでに一体何冊の本が読めるのか? という問題提起だ。

 

 残念ながらこの問いに対する答えはない。なぜなら、明日死ぬかもしれないからだ。だから、正確にその冊数を予測することは困難だ。仮定として、八十歳まで生きるとする。それまで割合健康に暮らして、今のペース、すなわち月に平均して三冊程度読むとすれば、年間三十六冊の本を読むことができる。今二十七歳だから、死ぬまであと五十三年あるとすると、あと1908冊の本を読むことになる。


 
 これはとても少ない数字だ。おそらく、地元の本屋にある文庫本全て合わせても二千冊程度はあるだろうから、人生の残り全てかけても、その程度の分量しか読めないことになる。

 

 だからこそ、本との出会いというものは、人生を有益に過ごす上で、非常に重要な機会になってくる。

 

 では、人間は普通、本とどのようにして出会うのだろうか?

 

 書店という答えがある。最近ではアマゾンが多いかもしれない。もちろんその回答は筆頭であろう。しかしそれと同じくらい重要なのが、人に紹介される本たちだ。経験論にはなるが、人に紹介してもらった本は、面白いことが多い。なぜかというと、人が本を薦めるとき、そこには商業的ではない、つまり本屋が敵うことのない熱量が存在する。面白い本があるというのではなく、どういった導入で本と出会うかがその本が面白いかどうかを決めている節はある。本というのは、この世界に存在するあらゆる商品の中でも、そういった意味で特別な地位を占めていると思う。

 

 私がこうして、誰が読んでいるかわからないブログで細々と本の紹介を続けているのは、いわば恩返しのようなものである。実際、私は年少ない時から、幸いなことに、本当に素晴らしい本を薦めてくれる人々に囲まれて過ごしてきた。今もそうだ。


 無限にすら思えるインターネットの世界の中で、誰かがここにたどり着き、私の薦めた本を読んでくれる。そしてその本を面白いと思ってくれる。一度そういうことがあれば、今度は誰かが私に、面白い本を薦めてくれるはずなのである。もちろん論理的には正しくない。私が誰かに本を薦めることと、誰かが私に本を薦めてくれるのは、全く別の事象であるからだ。だがそういうことは起こりうる。

 

 さて、今回薦める本は多島斗志之の「不思議島」だ。

 

 多島斗志之氏は、2009年に失踪した。もう7年が過ぎてしまった。7年ということは、法的には死亡したことになるのだろう。

 

 近年、この多島氏の作品の電子書籍化が進んでいる。非常に喜ばしいことだ。

 

 例によって知人に勧められて読んだ。多島作品は、「黒百合」でその技巧に舌を巻き、「症例A」では独特の陰鬱な物語の雰囲気に飲み込まれ、あっという間に読み終えた。この二作品も機会があったら紹介したい。それでこの「不思議島」を読んだわけである。

 

 私にとっては三つめの多島作品になるわけだが、ミステリとしての完成度、というか、私の個人的な「ミステリ」の範疇として捉えた場合、最もスッキリする作品だった。ミステリに限らないのだが、小説の面白さというのはやはり、舞台と、そのムードに大きく左右される。

 

 この作品の舞台となるのは瀬戸内海のとある島である。瀬戸内海を訪れたことのある人は多いだろう。


 私も父の実家が四国にあり、昔、高校生の時に、香川の瀬戸内海沿いのホテルに泊まったことがある。そのホテルの窓から、強烈な夕日を見た。それは普段暮らしている大阪では絶対に見られないような夕日だった。果てしない夕日に小さな島々が照らされ、海が輝き、日が沈むにつれて深い闇に島々が沈んでいく様は圧巻だった。この物語を読むと、潮の香りが漂ってくるような、そういう雰囲気を味わうことができる。

 

 そういえば湊かなえの「郷愁」も瀬戸内海が舞台だった。瀬戸内海には謎を惹きつける魔力みたいなものがあるのかもしれない。