サブスクリプション時代の音楽鑑賞について

 

 

 サブスクリプション型の音楽配信サービスが開始されて数年になる。はじめ、私のようなどちらかといえばレトロな人間は、ただ傍観していた。あまり積極的にそのサービスを利用する気になれなかった。「音楽」が「聴き放題」というのが、どうしても納得がいかない。「食べ放題」は大好きだし、「飲み放題」も最高だし、「映画やドラマ」の「見放題」も割合すんなり受け入れたのだけれど、どうにも「音楽」となると微妙な心持ちがする。


 それはもしかすると、自分がアマチュアとはいえ演奏者だったり指揮者だったりするからで、そんな風に音楽が聴かれていくことに抵抗があるのかもしれない。


 たとえば料理人だったら、どう考えるだろう。

 

 食べ放題だろうと何であろうと、自分の作った料理が美味しく食べられ、かつ自分にも正当な対価が与えられるのであればよい、というだろうか。いいそうな気もする。

 しかし、食べ放題、飲み放題だと、どうしても食べ方が大雑把になる。食べようと思って取ったものが、結局食べられずに、残飯になったりすることもある。それゆえ、一部のレストランや居酒屋では、食べ放題なり、飲み放題での飲み残し、食べ残しに罰金を科すと書いてあったりする(罰金を科された人に会ったことはないのだが)。


 これは、料理人にとっては「切なさ」を感じる事態であろう。丹精込めて作ってるなら、なおさら。自分の作ったものを一旦は客に出して、けれども食べてもらえないというのだから、切ない。しかも普通に考えれば、それは捨てなくてはならないのである。せめて食えよ、と思うはずである。


 これは「食べ物」という物理的実体を持つものだから、多少、遠慮というか自然と「もったいないし」「残さないでおこう」という感覚があるはずであるのだが、この、サブスクリプション型の音楽配信サービスというシロモノは、物理的実体がまったく存在しない。そのへんがCDとは違う。スマートフォンさえあれば、CDラックも、それを置くスペースも必要ない。


 さて、「音楽聴き放題」に抵抗があるなどと最初に書いた私であったが、GooglePlayMusic(GPM)に登録した結果、大量の「聴き残し」をやってしまっている。何日かけても聴ききれないような(オペラの通し録音系がやはり長い)同曲異演(『マイスタージンガー』とか『ばらの騎士』とか)を死ぬほどプレイリストに「流し込んで」いる。自分のことをレトロなどと形容するのはもう止めたほうがいいかもしれない。何の免罪符にもならない。


 これはどちらかと言えばKindleUnlimitedにおける「(データの)積ん読」に近い現象のような気がするが、食べ放題と同じで、こちらはこちらで別の「もったいない」という感情が働いてしまう。要するに、「月980円払うのだから」というやつである。あ、そういえば今月は何も新しい曲聴いてないな、どれドヴォルジャークの9番の異演でも探すか……といった具合で、このへんがサブスクリプション型サービスの肝らしい。


 そのことの文化倫理的側面は、まあ、よくないことなのだろうが、しかしGPM、めちゃくちゃ便利なのである。「積ん聴」状態にあるものが大量だが、何といっても、曲名とか指揮者とかを打ち込めば、わりとメジャーなレーベルのところのCDがバンバン出てくるのがよい。これが聴き放題。こんなに便利なことはない。しかも、結構マイナーな音楽(トロンボーンだとアルミン・ロジンのCDがあったのに感動)も多く扱っている。邦楽・洋楽もなかなか良いが、クラシック音楽での力の発揮ぶりが素晴らしい。


 最近だと「そういえば昔、『ローマの松』の名盤って何ですかと先輩に訊いたときに、サンタ・チェチーリア×パッパーノがいいよって言われていたなあ、GPMにあるかなあ」などと思ってPappanoと打ったらそれはもうすぐに出てくるのである。で聴いてみると、いや、やっぱりいいですね。パッパーノ。


 ふとレスピーギつながりで「教会のステンドグラス」が聴きたくなり、フィルハーモニア管のレスピーギ作品集がやはりGPMで出て来て、そこに「ローマの松」が入っていて、これを聴いてみたら、これもいい。サンタ・チェチーリアのような端正な演奏ではないけど、熱い。ヤン・パスカル・トルトゥリエという指揮者らしいが、初めて知った。

 

 こんな風な出会いが、普通にできるのだからやはりサブスクリプション型の音楽鑑賞、いいですね〜という結論になってしまう。今の所デメリットは、電子書籍と同じだが、「人に貸せない」ということだろうか。本当にそれくらいしか思いつかない。正直、宝の山だと思います。


 ここまで書いて言うのも何だが、「宝の山」だけで終わりそうにないテーマだとも思っている。

 いわゆる複製技術時代の芸術の問題、ベンヤミンが指摘した「アウラ」の問題が、こういったサブスクリプション系のサービスでは、どういう議論になるのか。あるいは、こういったサービスが恒常化することによって、音楽の作り手側のモチベーションは変質するのか否か。そういったところに論点を移して、次は書いてみたいと思う。