ほかのどんな小説とも違う小説  奥泉光 「石の来歴」

 

 

 もしあなたがとても美しい万華鏡を手に入れたとしたら、きっと数時間はそれを手放すことができないだろう。でも一晩眠ればその感動は失せて、一週間後にはどこかに仕舞っていて、半年後には埃をかぶってしまい、一年後にはどこに置いてあるかわからなくなってしまう。
 
 三年後、あなたがその万華鏡を再び手にとったとして、その穴を覗いたとして、果たして、初め目にしたものと同じ世界が見えるだろうか。きっと違うと思う。そこにある華麗な細工は寸分違わず同じなのに、違う見え方をしてしまう。それは自分の中の記憶が薄らいでいったからでもあるし、自分の感性が変化したからでもある。そしてあなたは、短い時間かもしれないが、その万華鏡に再び心を躍らせることができるはずだ。
 
 人間と読書の関係はこのようなものではないかと思う。私たちが本を買うとき、美しい万華鏡のようなものを買っているとも言える。その本を定点として、私たちが、私たち自身の変化を認識する。本を再読することの愉しみはここにある。
 
 
 奥泉光の「石の来歴」という小説は、外部にも内部にも微細に装飾が施された、優れた一本の万華鏡のようでもある。
 
 
 
 
 
 この話の「現在」は第二次大戦が終わった後の現代(昭和四十年代くらいだと思う)の日本が舞台であり、戦時中兵隊であった主人公真名瀬の、戦地での「回想」が挿入される形で話は進んでいく。
 
 普通はそう読むだろう。
 
 ところが私は、今回二度目に読んだのだが、普通であればあり得ないようなことを考えながら読んでしまったのだ。
 
 つまり、この話、語り手が語っている「現在」というのが、逆に、まさに戦時中で、時折「未来の回想」、というか、語り手の妄想、が挿入されているのではないか、という疑念である。
 
 ヴォネガットの小説にもしかするとそういう、時間軸がごちゃごちゃになっていたモノがあったかもしれない(スローターハウス5かな?)。
 
 しかしこの作品の語りは、講談調で、非常に読みやすくはあるものの、ユーモラスというほどではなく、どちらかといえばシリアスな語りであるしシリアスな筋である。人も死ぬ。だけれども、そんなことはあり得ない(現在が戦時中だとして、どうやって未来の日本で学生運動が展開されることがわかるのか)とわかってはいながらも、そう錯覚してしまう、そのような書き方がされているのではないかと思う。
 
 だとすると、これはとんでもない小説である。私は読後に、そのことに気がついて、というか一瞬そんな風に疑って、慄然とした。そのような仕掛けであれば、作中の不合理なできごとも、すべて解決されるという気がしたのだ。
 
 そもそも、初読時と二回目で、これだけ見方が変わってしまう小説、というのに私は今まで出会ったことがない。もしかするとそういうのがどこかにあるのかもしれないけれど、現状、私にとって、一回目と二回目の差が一番激しい小説だ。その意味で、この小説はほかのどんな小説とも違う、特別な地位を占めている。
 
 いずれにせよこれは私の妄想に過ぎないし、ちゃんと細かく読めばボロがでるかもしれない。そのへんは批評家に任せたいと思う。奥泉光、ミステリも書いてるからなあ、というのもちょっとある。
 
 そんなことは置いといて、この小説、「石」の話である。主人公である真名瀬という男は、一日の仕事が終わると、眠るまで自分の家に設えた研究室に篭って、石を磨いたり、分類して箱に入れたりして遊んでいる。休みの日は山とか河原に出かけて石を集めている。その描写がたまらなく良い。自分にも何かそういう、毎日打ち込める趣味みたいなものがあるといいなあ、なんていう、健全な感想を抱かせてくれる小説であることは間違いない。あんまり趣味がない、という人にぜひオススメしたい小説だ。