数学と私 その5

 

5. 人生という応用問題

 

 たとえば子供に「何のために数学を勉強しなくちゃならんのか」と問われたら、それなりに言いくるめる方法はありそうである。「世の中には便利なものが沢山あるけれど、数学のおかげなんだ」とか、「数学を勉強していた人の方が年収が高いんだ」とか、「俺だって死ぬほどやらされたんだ」等々、何でもいいし、根拠を示せない訳でもない。

 

 ではこの問いに対してはどうだろう。

 

「あなたは何のために数学を学んできたのか」

 

 あなたはどう答えるだろうか。私が本当に答えたいのは、結局のところ、この問いなのである。

 

 先述した高校を卒業したあと、私は附属の大学へ無事進学し、社会学部に入った。専門はジャーナリズムということだったが、おそらくそのへんの大学の仏文科より熱心にフランス語を勉強していた。フランスという国や、フランスの社会学、フランスの音楽に興味はあったけれど、それらについて深く知りたいというよりも、単にフランス語という言語が好きで勉強していた。私にとってほぼ語学学校と化した大学に毎日通っていると、なりゆきで、一年間フランスに留学することになった。

 

 留学中は、冗談抜きで一日中勉強していた。というか、ほどほどに田舎でもあったので、勉強くらいしか娯楽がなかった。

 その頃私はフランスの歴史学というものに魅せられて、教授から出された課題に真剣に取り組んでいた。テーマは「シャルル・ド・ゴールレジスタンス」というものだった。課題に必要不可欠な文献であるLaurent Douzouの'La Résistance française'という、300ページほどある本を頭から丸々訳していた。

 

 

 

 授業がない日などは、朝から晩まで机に座って、この本を読んでいた。何時間も一心不乱に読み続け、一番集中力が高まった時に、不意に、フランス語から日本語へ脳内へ変換していく作業が、数学のように……複雑な式を解きほぐしていくあの感覚……思えた瞬間があった。ほんの一瞬だったが、思考の内側に数学が”見えた”のだ。

 

 思考というものは一頭の獣に似ている。誰もが自分の中にこの御し難い獣を飼っている。足が速かったり、角が生えていたり、翼を持っていたり、それぞれが特徴を持つ唯一の獣だ。これを死なせないためにはエサをやらなければならないし、生き延びさせるためには鍛えなくてはならない。この思考という名の獣の骨格こそが、外からは見えない骨こそが、その人の学んできた数学なのだと思う。そしてその獣の肉は言葉である。思考を支えているものの一つが数学であり、思考の表現の一つが言葉である。

 

 私は翻訳という、脳の中身をかなり生々しく使う作業に没頭するうちに、これまで積み重ねてきた数学というものの正体を垣間見た。このこと自体は、何も新奇な発見というわけではない。寺田寅彦がズバリなタイトルでエッセイを書いている。興味のある方はぜひ読んで見ていただきたい。

 

 

 すこし視点を変えてみよう。古今東西、いわゆる「アイデア本」のようなものは星の数ほどあるわけだが、その元祖とも言えるものが、ヤングの「アイデアのつくり方」だと思う。

 

 

 著名な広告制作者であったヤングが、どうすれば独創的な広告のアイデアを生みだせるか、ということについて語った実に短い本である。

 

 先日、この本を読んでいるときに、ハッと思ったことがある。本の末尾で、ヤングが三冊の本を薦めているのだが、その中にポアンカレの「科学と方法」があったのだ。このポアンカレはもちろん、数学者の方のポアンカレだ。フランスの元大統領のポアンカレのいとこにあたる。

 

 

 

 ヤングは直截的に「数学はアイデアを生みだすのに役立つ」などとは書いていない。しかし、いわば”間接証拠”がゴロゴロと転がっているように私は思う。「アイデアのつくり方」は物理学者の竹内均(彼は寺田寅彦を読んで学者を志したそうだが)が解説を書いているが、彼はこう述べている。

 

著者があげている三冊の参考文献の中にフランスの数学者・物理学者のアンリ・ポアンカレの書いた「科学と方法」が入っているのが、まず第一に私を驚かした。このポアンカレ第一次世界大戦中のフランス大統領レイモンド・ポアンカレのいとこであり、彼の著書「科学と方法」は自然科学における独創やアイデアを論じる際の基本的な文献だからである。吉田洋一の手になるその日本訳は岩波文庫の一冊となっている。これと同様なもう一つの基本的文献として、同じ岩波文庫におさめられている落合太郎訳のルネ・デカルト著「方法序説」を私はあげておきたい。

 

ジェームズ・W・ヤング著 今井茂雄訳 『アイデアのつくり方』p.68-69)

 

 

 この本でヤングは広告のアイデアについて述べているはずなのに、なぜ自然科学の基本的文献が、というのが竹内の驚きだろう。その驚きに、いわば応答する形で竹内が名を挙げたデカルトは、史上最大級の数学者であり、哲学者である。これは偶然などではない。数学というものが、それ自体が目的となりうる科学だけではなく、広告のような身近なもののアイデアでさえ射程に収めうるということ、さらに一般化すれば、人間の発想というものにとって、欠くべからざるファクターであることを物語っているのではないか。

 

 そもそも数学はいわゆる理系の学問と思われがちではあるが、歴史的に言えば、デカルトが哲学者であり数学者であったこと、またさらに遡ればプラトンピタゴラスなどギリシャの哲学者たちが数学を重視していたということを考えると 、数学はむしろ哲学というべきなのだろう。しかしこのことは、神学というものを抜きには語れなくなってくるはずなので、大いに話が逸れるので、また別の機会にしたい。

 

 冒頭の問いに戻る。

 

「あなたは何のために数学を学んできたのか」

 

 考えない人間はいない。考えるのに必要な力を数学は与えてくれる。数学は思考の骨だ。だから私が数学を学んできたのは、いわば、骨を鍛えるため、カルシウムを摂ってきたようなものなのだ。微分はできない。サイン・コサインも忘れた。方程式なんかクソ食らえ、というあなたでも、大丈夫、学んできたことは役に立っているのだ。「どこか」ではなく「今ここ」で役に立っている。これまでの人生で、何かをじっくりと考え抜いた時間があるならば、その思考は数学に支えられていたはずだ、と。

 

 これで数学の話はおしまい。カルシウム、摂りませんか?