雨の音が聴こえるとき

 


 数年前から、幸福とは何かということを、自分なりに考えてきた。私にとって考えるということは、書くということに他ならない。書くことで自分の考えを知り、文字に置き換えられた考えを操作して、また別の考えを見つける。幸福とは何かということについて考えた文章が溜まってくれば、自ずと幸福の総体のようなものが、すなわち自分にとっての幸福の定義のようなものが浮かび上がってくるのではないかと、そう考えてこの試みを始めた。そして、やや傲慢ではあるが、そうして出来上がったひとつの定義は、ある程度普遍性を持つのではないかと思って、こうして公開することにしてきた。なぜなら私は現代社会に生きるひとりの人間であり、これを読む人もひとりの人間であるからだ。

 


 そうして私が数年に渡ってぼんやりと考えてきたことが、最近、ふと、一つの結晶になったような気がしたのである。

 


 数日前のことだ。知人からの手紙にこんな一文があった。「雨の日が増えてきましたね。わたしは、雨の音を聴くのが好きです」

 


 その何の変哲もない一文を読むと、私は妙に感動してしまった。私が言いたいことは、まさにこのことではないだろうかと。要するに、幸福であるということは、雨の音が聴こえるということなのではないだろうかと。

 


 冷静に考えてみれば、その知人とは違って、私は雨の音を聴くのが、それほど好きなわけではない。だが、考えてみると、雨の音が「聴こえる」時と、「聴こえない」時がある。あなたも一度考えてみてほしい。雨の日は数限りなくなるけれど、その全ての日であなたは雨の音を聴いただろうか?

 


 ある一日の心が一枚の自由な画用紙だとしたら、あらゆる言葉、古い思い出、今朝の夢、胸の中にある音楽、夕食のレシピ、不意に湧く沈痛な気持ち、断ち切れぬ後悔、口座の残額、熱いまなざし、強い香水の匂いの記憶、諦め、そして壮大な人生の物語などでコラージュされ埋め尽くされた紙には、雨の音など入り込む隙間はない。雨は時間の余白に降る。それが聴こえるということは、たしかに余白があるということだ。他に聴くべき何かがあったり、別のことに集中していては雨を聴けない。

 


 私的幸福論というカテゴリーで自由気ままに論じてきた私の幸福観は、ここに結晶する。つまり、心の余裕を感じた時、人ははじめて自分を幸せだと感じられるのだ。心の余裕を感じるために、旅行してもいいし、銭湯に行ってもいいし、酒を飲んでもいいし、手紙を書いてもいい。手紙を書いて幸せになるわけじゃない。手紙を書いて、「ああ、何だか余裕があるな」と感じられたら、それが幸せなのだ。

 


 それが今現在の私の結論だが、ここまで書いて、もっと違う幸福の形もあるのだろうなと推測している。いわゆる、満ち足りた気持ち。余白ではない、もっと別の幸福……いわばfullの幸福というものがあるはずなのだ。静ではない動の幸福。冷静ではない情熱の幸福。水ではなく炎の幸福。これからは私は長い人生をかけて、そんな幸福の形も探してゆくつもりだ。