アイデンティティのフラクタル

 

 夏の高校野球を、地方大会の準決勝あたりから眺めていると、我々のアイデンティティというものは、ドメスティックなものに限定しただけでも一筋縄ではいかないことがよくわかる。

 

 

 最近は地方大会もネットで中継がある。大阪大会の準決勝くらいは、地元の近くの学校を応援してしまう。たとえば枚方に住んでいる私は、準決勝で金光大阪高槻市)と東海大仰星枚方市)が当たったとき、やはり東海大仰星を応援してしまった。負けたけど。

 

 

 この地方大会の中継がおもしろいもので、「出身中学」が書かれていたりする。すると、「あ、金光大阪の選手たちは、北摂か、せいぜい市内出身で、桐蔭はほんとうに日本中から集めているんだね」なんてことがわかって面白い。

 

 

 もう開幕したが、全国大会では大阪代表である履正社を応援してしまう。

 

 

 例年の甲子園大会を振り返ってみると、たとえば大阪代表が負けたら、何とはなしに、近畿の学校を応援している。近畿の学校が全滅したら、「西日本」の学校にそれとなく注目する。自然にそういう応援の仕方をしているが、そういう人も多いんじゃないだろうか。これは、自らのアイデンティティの適用範囲を拡張していく好例である。

 

 

 余談になるが、この拡張にも限界がある。たとえば去年、金足農業大阪桐蔭の決勝があった。このとき、金足農業を応援した「大阪人」あるいは「関西人」というのは、案外多いはずである。

 

 

 私はこれは、云って見れば、現代の「判官贔屓」のようなものだと思っている。吉田輝星はさながら義経で、彼のあの白い歯と熱い涙は列島の同情を誘ったはずである。(日ハムに行ってからどうなのかはあまり知らないが)なぜか。それは、金足農業VS大阪桐蔭という試合になると、コントラストがあまりに強いからだ。

 

 

 秋田県のいち地方を代表した、公立高校である金足農業に対して(むろん、野球の名門ではあり、部員のモチベーションは非常に高いとは思うが、それでも)、全国から優秀な選手を集め、しかも勝つための努力と投資を長年行ってきた大阪桐蔭。ここまできて、アイデンティティの対立はイデオロギーの対立に昇華されたとみている。「地元」か「地元でない」か、ではなく、「地元感がある」か「地元感がない」かの対立になったわけだ。あの決勝では、具体的名称としての地元は抽象化されていたと私は思う。(余談の余談になるが、しかし、その栄華を極めた大阪桐蔭が今夏地方大会で負けてしまうあたり、まさに「平家物語」的であり、私たちはそういう話が好きで、日本人のメンタリティは鎌倉時代あたりからあんまり変わっていないということのひとつの証左になるかもしれないし、朝日放送は現代の琵琶法師ということになる)

 

 


 本筋に戻るが、シェルピンスキーの三角形という図形がある。これは、数あるフラクタルの図形の中でも、一番わかりやすいものではないかと思う。

 

 

f:id:satoshi-hongo:20190808211137p:plain

シェルピンスキーのギャスケット

 

 


 正三角形の中に正三角形があり、その正三角形の中にまた小さな正三角形が……という図形で、遠くからみると、それ自体が巨大な正三角形である。

 

 

 私は、アイデンティティというものは、こういう形なのではないかと思っている。

 

 

「大阪人」というアイデンティティを考えてみると、大阪人が己のアイデンティティに気づくのは、他府県の人と出会ったときである。こう問われるのである……「大阪人って、家にたこ焼き器があるんですか?」「大阪人は、話にきれいなオチをつけるんですか?」

 

 

 言うまでもないが答えはNOである。私の家にはたこ焼き器はないし、話にオチをつけるのが苦手な大阪人は山ほどいる。これは一種のステレオタイプだが、そのステレオタイプが発生する境界は、上記の例で言えば、「都道府県」ということになる。いわゆる「県民性」と言われるものだ。

 

 

「県民性」が存在するのなら、当然「国民性」というものも存在する。これは、外国人と接触したときに初めて生まれるものだ。(妥当かどうかはともかく)日本人は、礼儀正しい、おとなしい、きれい好きだ、統率がよく取れている、などなど。文明が接触したときに生まれるものは何か。もっと大きなレベルでの「地域性」だろう。アジア人は、ヨーロッパ人は、アラブ人は、アフリカ人は、というもので、これも聞き覚えがある。もし我々が宇宙人と接触した際には、「星民性」とでもいったものが発明されるはずである。

 

 

 話を大阪に戻そう。「大阪人」とひとくくりにできないほどの多様な「地域性」が大阪にはある。旧国名を使うとわかりやすいが、河内と摂津と泉州では人の気質も街の雰囲気もずいぶん違う。現在の行政区分で言うと、たとえば私が住んでいる枚方市の文化や人は、同じ大阪といっても、たとえば千早赤阪村のそれとはかなり異なっているはずだ。

 

 

 枚方市内ではどうか。枚方市にはだいたい40万人くらいの人が住んでいるわけだが、枚方市も淀川沿いと東部ではまったく違う世界が広がっている。町名が違うだけで微妙な差異がある。さらに言えば、同じ町名でも、どのあたりに住んでいるかということで、受け取る情報はまた変わってくる。

 

 

 町名をさらに突き詰めると、家族の違いというものが出てくる。さらに家族の中では個人の違いがある。そしておそらく、個人の中にも無数の「地域性」が存在している。それはつまり、職場での自分、家庭での自分、趣味をしているときの自分、ひとりで飲んでいるときの自分、といったものかもしれない。

 

 

 この構造、宇宙から人々を俯瞰したときに見えるものと、個人が内面をみつめたときに見えるものは、似通ったものになるはずだ。

 

 

 だから、「孫子」を読んでいて、

 

 

 

 

知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戰必殆。

 

 

 

 

 かの有名なこの一節に出会ったとき、私は、これは情報の重要性、敵軍と自軍の能力やあらゆる情報を把握しておれば勝てる、などという教訓には解釈しなかった。孫子は、一人の人間、すなわち自分と、もう一人、すなわち敵の、この二人を真に理解したらそれはすべての人間を理解したことにつながると、そのことに気がついていたのではないだろうか。