「役に立つ」病

 
 おそらく多くの大人と比べて私は暇でぼんやりしている方だから、たまに物凄く漠然としたことを考えてしまう時がある。ここ最近考えていることは、「知る」というのはどういうことなのだろう、ということだ。
 
 
 私たちは、「知る」ということについて、「役に立つかどうか」ということを、知らず知らずのうちに基準にしてしまっているのではないか、ということを考えていた。つまり、私たちが何かを知ろうとする時、その何かとは、私たちの人生の役に立たなくてはならないのだろうか? 
 
 
 人生に役立つものとは果たして一体何だろうか。私たちは、役立つものを選ぶことができるのだろうか。
 
 
「すべてが役に立たない」と言う人は、いささか虚無主義的な傾向がある。逆に、「すべて役に立つ」というのは、スタンスとしては素晴らしいかもしれないが、やや理想主義に過ぎる。
 
 
 また、「知ったことは何にでも活かせる」という観点もあるだろう。耳ざわりはいい。しかし、実際のところ、我々の人生というのは有限だから、活かしている時間が残されていないかもしれない。というか、明日車にはねられて(それは本当にありうることで、何台もの車の横を通り過ぎながら生きている私たちは、おそらく何の関係もない他人の数センチのハンドル操作で命を落としてしまう)死ぬかもしれない。ここまで考えると、要するに、私たちは未来を見通す知性も、車にはねられても確実に生きる強靭な生命力もないのだから、神でもない限り、知ったことを活かせるかどうかという保証はないわけである。つまり、私たちは知るということに関して、その目的語である「何か」を取捨選択することはほとんど不可能に近いと言える。
 
 
 もちろん、そのような前提に立った上で、役に立つ「であろう」知識を推測することは可能である。過去を根拠にし、これから何が必要であるかを推測し、それを知ることで、役立てていくということである。
 
 
 一年ほど前、大阪で大きい地震があった。その時のテレビを見ていて、非常に印象的な場面があった。どこかの百円均一の店で、電気が通らなくてレジが動かないから、店員がそろばんを使って代金の計算をしていた。そろばんは商業の代名詞だが、現代において、使える人は比較的少ないはずである。しかし、この時そろばんは、そしてそろばんを使う技術は、その店員にとって間違いなく「役に立った」のである。
 
 
 では我々は、地震に備えて全員がそろばんを学ぶべきなのだろうか。それを言い出すと、私たちは、あらゆる状態を想定し、「あらゆることを知る」必要が出てくる。それは前述の通り、人間の時間が有限であることを考えると、やはり無理そうである。
 
 
 であればやはり、役に立つであろう知識を推測し、知ったことはなるべく活かすような人生を送る、というのが現状の最優秀回答なのだろうか、と考えたところで、そもそも問いの立て方が間違っていたかもしれないという可能性に気が付いた。
 
 
 要するに、「生きるために知る」という、「知る」という動詞を述語にして考えるから完全な回答が得られないのである。生きるために知ろうとするから、役に立つかどうか、という、小さな、不完全な、思い上がったことを考えてしまう。じつは、逆なのではないか。「知る」という動詞は、「生きる」などという行為のために行われるものではない。
 
 
 つまり、「知るために生きる」ということだ。
 
 
 そう考えてみると、この「役に立つ」病から一瞬で解放される。人間は、私は、知るために生きている。まるでオセロの白黒が終盤の一手で裏返っていくように、この世界にある、ありとあらゆる知識にすべて意味が宿ってゆく。