世界を知覚する方法について

 今井むつみという心理学者が書いた、「ことばと思考」(岩波新書)を読んだ。昨年度の読書テーマは、「日本」だった。

 

 と言っておきながら、この本は、日本語についての本ではなく、さまざまな言語を比較検討した本だが、日本語話者であるところの私は、やはり日本語による世界の切り取り方というものを始終意識しながら読んでしまった。

 

 この本は、たとえあなたが言葉に興味がなかったとしても、単におもしろいと感じるはずだ。なぜなら、言葉を使わずに暮らしている人は、この地球上で、いたとしてもほんのわずかで、ほぼ全員が何らかの言葉を使いながら生活をしているわけで、つまりはそのほぼ全員が言葉という道具に関わっているわけだから、要するに、他人事ではなく読めるという意味である。

 

 ついつい引用してご紹介したくなる箇所が沢山あるのだが、この本で一番おもしろかった部分はどこか、と問われたら、やはりこの部分であろう。

 



つまり、ことばを持たないと、実在するモノの実態を知覚できなくなるのではなく、ことばがあると、モノの認識をことばのカテゴリーのほうに引っ張る、あるいは歪ませてしまうということがこの実験からわかったのである。

 

 

 

今井 むつみ. ことばと思考 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.882-884). Kindle 版.より引用。

 

 

 いくつもの論点がある本ではあるが、この点が一番おもしろい。さまざまな実験を例に出して、いかに人間の認識や記憶が言葉に引っ張られるか(歪めさせられるか)ということを論じている。唯一の絶対的な正しい言葉というものはこの地上に存在しないのだから、そのように認識なり記憶なりが変化するということは、それ自体が興味深く、楽しめることである。

 

 このことを素人の特権として、たいへんに拡大解釈して考えてみると、要するに、人間は言葉によって世界を知覚している、と言うことができるかもしれない。

 

 この本の中では、たとえば日本語と英語では、歩くと走るという表現の数に差があるという話が出てくる。日本語では、「歩く」か「走る」の2種類しかない表現を、英語では4つに分ける。しかし、人間がどれくらいのスピードで動いたら大枠の「歩く」と「走る」を切り替えるか、という点に関して実際に人を走らせてそれを見せて表現させてみると、英語と日本語は一致したという。そんなふうに、この本の中では、(大袈裟に言えば)世界の見方が言語によって異なるが、共通している点もある、ということが述べられているわけだ。

 

 では当然、日本語話者内であっても、世界を知覚する方法は異なるのではないか、という疑問が出てくる。なぜなら、日本語話者の中で、何から何までまったく同じ言葉を使う人間など、存在しないだろうからである。

 

 これは、単に「方言」という話ではない。たとえば同じ大阪弁話者であったとしても、使用する語彙や、微妙な語尾など、人によって多少の違いがあるだろう。その違いは、ほとんど取るに足らない違いであったとしても、大袈裟に言えば、世界解釈の違いなのである。

 

 なぜなら、この本の中で繰り返し言われているように、私たちが知覚しているのは、「言葉によって切り取られた世界」であるからだ。

 

 

 どのような言葉を使うか、ということは、どのような社会でも、比較的重要視されてきたと思う。それは私は、「知覚している世界が違うから使用する言葉が違う」のだと思っていた。しかしどちらかと言えば、言葉に認知が引っ張られるということを考えると、「使用している言葉が違うから知覚している世界が違う」なのかもしれないのだ。

 

 つまり、私たちは言葉を使って、世界を知覚する方法を変えられるかもしれない、ということである。単純に言えば、言葉を豊富に知っている人は、世界を豊富に理解することができるのだし、いくつもの言語を理解する人は、世界の見方をいくつも知っているということになる。

 

 しかしこのことは、大文字で書くべきことではなく、あくまで心に留めておくべきことのようにも思える。なぜなら言葉は同時に、物事を固定してしまうのではないか、という疑念が常につきまとうからだ。そしてそれが幸せにどのように繋がるのかという問いに対しては、私はまだ語る術を知らない。