借りものじゃない言葉
インターネットの隆盛というものを時々ふと考える。
私が子供の時にちょうど、インターネットというものが家庭にやってきた。
やってきた、と言ったが、はじめ、私の家にはインターネットに接続したパソコンが無かったからインターネットは出来なかった。だから、週末に行く父親の会社ではじめてインターネットというものをやった。
これがたぶん、小学5年生か6年生の頃である。この年齢が早いか遅いかはまぁ置いておいて、私の世代は、インターネットが登場した最初期を知る、もしかしたら最後の世代なのかもしれない。(ちなみに携帯電話についても似たようなことが言えると思う)
今の子供たちに、インターネットを初めて「やった」のはいつ?と聞いたら、たぶん「わからない」と答えるだろう。
私が「テレビを初めてみたのはいつ?」と聞かれたら答えられないのと同じように。それは、生まれた時からそこにあったものだから。
あまり風呂敷を広げると大変なことになるので、インターネットの話に戻ろう。
先日紹介した堀江貴文氏の著作にも出てきた言葉だが、
アイデアは頭の中からひねり出す時代から、インターネットで検索し、組み合わせる時代になっている(堀江貴文著『ゼロ』p.215)
わけである。
私たちはおそらくこのことを既に知っている。
ブックマークが減っているはずなのだ。
私が思春期、つまりまぁ、中高生を過ごした時代ではこのテキストサイトというものが大変に盛り上がっていた。
個性的な文章やネタ、フォントをいじるとか、そんな風にしておもしろいサイトを作る「素人」が活躍した時代でもある。私たちよりも少し上の世代、今の30代や40代の先人たちが活躍していた時代だ。
私は音楽をやっていたので、音楽ネタのサイトなどをよく見ていた。実に面白い文章を書く方々がたくさんいた。いつまで読んでいても飽きないようなサイトがたくさんあった。
そして「チャット」というのもわりと流行っていた。
匿名性が担保されたサイバー空間での会話。これはなかなか面白かったし、私は部活が終わり家に帰るといつもチャットに興じていた(このころにはもう家にインターネットがやってきていた)。
実際、そのチャットで結構有益な情報を得たりしたものだ。
そして当然のように、私も自前のホームページを構えることになった。
無料のサーバーを借りて、HTMLをかじって作ったものだ。それでそのサイトで、見よう見まねでタグをもてあそび、「管理人に~の質問」に答え、CGIのチャットを設置し、誰も読まない連載小説を始めた。
そこでは少なくとも、誰もがオリジナルの(もちろん例外もあったろうけど)ものを作り、無限の海を思わせるインターネットに向けて発信していた。借りものじゃない言葉で、世界は語られていた。というと少し美しすぎるかもしれない。
今はどうだろうか。
どちらかといえば、借り物の言葉であふれていないだろうか。
私が昨日やったように、何かニュースとか記事とか、そういうものをブログに貼り付けて、それについてコメントするようなブログ。どんな本読んだとか、どんな映画観たとか。
一応この辺で言っておくが、私は善悪の話をしているのではない。今が悪くて、昔が良かったというような紋切型の話をしたいのではない。
ただ、私は昔そうやっていたように、世界に向けて言葉を突きつけている。
それでいいのか?と。
せっかく世界が相手なのに、それでいいのか?と。
「誰が見ているかわからない」チラシの裏のようなブログだからこそ、もっと自由に言葉を散らかしていいはずなのである。
テキストサイトというのは、そういう自由な雰囲気が前提として成り立っていた。それを担保していたのはたぶん、匿名性だったのだろう。
今でも匿名でインターネット上で発言することは可能である(私のように)。
Facebookは完全に、現実世界の補完という位置づけになってしまった。(少なくとも私にはそう見える)
Twitterは著名人の広告媒体となってしまった。(少なくとも私にはそう見える)
ブログは小銭稼ぎの場になってしまった。(そういう使い方をする人がいるらしい)
仮「装」世界としてのインターネットは失われてしまったのだろうか?
いや、失われてはいない。
なぜなら、私(たち)は今もこうして、自分の想いをぶつけることができるから。
悪くないと思う。
要は何が言いたいかというと、
インターネットはもっと面白くなれんじゃねえの?ということである。
チラシの裏こそが原点だと思うのだが。
最近、借り物の言葉の多さに、こんなことを思っている。
何が言いたいのかよくわからない記事になってしまったが、それもまた悪くない。
*1:テキストサイトについては【今更】あれだけ流行ったテキストサイトが何故廃れたのか考えてみる【考察】http://picup.omocoro.jp/?eid=1691に詳しい