つまらない時代
つまらない時代に生まれたな、と思うことが時々ある。
仕事で朝早くに東京駅から新幹線に乗り、新大阪で降りた。そして地下鉄の御堂筋線のホームで電車を待っていた。
テレビでよく見る女性アイドルの、拡大された顔が目の前にある。しかもその顔は微笑んでいて、わたしを見つめている。
そういえばこれどこかで見たなぁ、と思うと、今朝家の近くの東京メトロの駅で見たのだった。
わたしはなんだかため息をついた。どこ行っても同じだなぁ、と。
大したことではない。たまたま同じ広告を目にしただけのことだ。数百キロ離れた、別の場所で。ただそれだけのことだ。
それでもなんだかやりきれない気持ちになったのはなぜなのだろう。そして私はその時思ったのだった。つまらん時代に生まれてしもうたなぁ、と。
いや別に、昔が良かったとか、未来がいいとか、そんな根拠のないことを言うつもりは無い。
もしかしたらこういう感覚は、都市論とかでさかんに議論されているのかもしれない。都市のフラット化とか、そういうタイトルで。社会学専攻の学生が卒業論文に書きそうなテーマだなと思った。
いやそもそも議論すらされていないかもしれない。
別に東京と大阪がイコールでも誰も困りはしない。
むしろイコールに近づけたいという人もいるらしい。最近聞かなくなったが、大阪を東京に伍する国際都市にするとかなんとか息巻いている人たちがいたような気がする。
もうほとんど昔の話なので安心しているのだが。
しかし、新幹線だって随分旅情のない乗り物だとわたしは思っているんだけど、その上同じ広告にお出迎えされるとなんだかげんなりする。
つまらない時代だなぁと思わざるを得ない。
おまけに、最近ではグローバル化ということがさかんに言われている。
大阪=東京とかそういう次元ではない。
ニューヨーク=パリ=ブエノスアイレス=北京ぐらいの勢いだ。
100年後くらいにはそういう風になっているかもしれない。
そうすると多分、地名というのは意味を失くしていくんだろうな。
それは名前ではなく、ただの(まさに文字通りの)名残になっていく。
まぁそういう世界も悪くないのかもしれない。
しかしわたしはやっぱり、グローバリズムよりもインターナショナリズムのほうが「おもしろい」んじゃないかと思ってる。
全部一緒、になるよりかは、全部違う、のほうが混乱するし面白い。
東京と大阪がもっと違ってもいいはずだ。
ナショナリズムとパトリオティズムをもう少し分けて考えたほうがいい。
パトリオティズムという言葉は、なんだか勘違いされていることが多いように思うけれど、それは本来土地に対する愛着でしかない。
まぁ、文脈に依存する言葉ではあるのだけれど。
しかし世界はつながってしまった。そろそろ神様が出てきて、またバベルの塔みたいなことをするのかもしれない。
それはそれでも面白いのかもしれない。