世界を滅ぼす言葉 伊藤計劃 「虐殺器官」と「ハーモニー」

最近立て続けに伊藤計劃さんの「虐殺器官」と「ハーモニー」を読みましたので、その感想など。

 

 

 

 

世界を滅ぼす言葉 「虐殺器官

 

 

虐殺器官」というタイトルからして、何やら血なまぐさい話かなあと思っていたのですが、多少は血なまぐさかったですが、「言葉」についての物語でした。

私たちが暮らしている2014年より少しだけ進んだ世界のお話で、主人公はアメリカ情報軍の暗殺部隊に所属する兵士です。暗殺のスペシャリストです。

主人公は数々のミッションをこなしていきますが、世界中で行われている虐殺に、ある一人の男が関わっていることを知ります。そしてその男を追いかけて世界中を飛び回り、最後には、なぜその男が虐殺を各地でばら撒いているのかを知る…というのが大まかなストーリーです。

 

この主人公は「言葉になぜかこだわってしまう」という性質を持っています。それはもちろん、作家である作者もそうなのでしょう。

そして、詳しくはネタバレになってしまうので書きませんが、「言葉」というものが実は虐殺と関係があるのではないか、ということが後半で明かされます。

 

「言葉」と「虐殺」。

つながるような気もするし、全然関係ないような気もする。

「うそつきは泥棒の始まり」と言ったりしますよね。

あるいは小さい時、友達と喧嘩したりして、「死ね」とか「殺すぞ」と言ったら、先生にしかられませんでしたか。私はそういうことがありました。「そういう言葉が戦争を引き起こす」みたいな説教を食らったこともあります。

あるいは、大学時代私にフランス語を教えてくれたある先生は、「人間とは言葉である」と言いました。

 

私はそんなことを思い出しながら読んでいました。

もしいつか世界が滅びてしまうとしたら、それは「言葉」が滅ぼすのではないか?

そんな風に思わせてくれる小説です。作者の世界理解の一つの認識があらわれた作品と言えるでしょう。

昨今のヘイトスピーチやらTwitterの炎上やらNHKの経営委員のお粗末な会見やらを眺めていると、ああ、確かに世界と言うのは言葉で滅ぼされていくのかもしれないな、なんてことを考えてしまいました。

 

 

世界を救う言葉 「ハーモニー」

 

 

虐殺器官」と同じ世界観の中で、もっと未来のおはなしが「ハーモニー」です。

続編と言っても良いのだと思います。

 

私が「ハーモニー」という言葉と、「虐殺器官」を読んでこの作品の内容を初め想像したとき、思い出した一節があります。

 

Et si tous les hommes apprenaient la musique, ne serait-ce pas le moyen de s’accorder ensemble, et de voir dans le monde la paix universelle ?

 

もしすべての人が音楽を学んだら、それはきっと互いに調和する方法になるはずだ。そして、世界中の平和を実現するための方法になるのではないか?

 

17世紀のフランスの劇作家、モリエールの「町人貴族」からです。フランスでは古典中の古典とされています。

これは、主人公である成り上がりの貴族に対して、音楽の先生が言った言葉です。

フランス語のaccorderという動詞には、再帰動詞の形を取ると、「同意する、意見が一致する、仲が良い、調和する」などの意味があります。

勘の良い方であれば、この「accorder」という言葉の中に、「corde」つまり「弦」という言葉が隠れていることに気付くでしょう。

弦楽器を調弦するという動作から転じてこの動詞が産まれたのかもしれません。音を合わせるということが、意見をあわせるというメタファーになっていると。

 

そして「ハーモニー」の中でも、このようなメタファーが使われています。

虐殺器官」の出来事がきっかけで、世界はいったん破滅的な状況を迎えたわけですが、それをバネにして人類は異常なまでの平和を実現します。

「生命主義」という思想が台頭した世界では何よりも社会の構成員の健康が重視されます。福祉社会が発展した形と言う風に本文中では説明されています。要するに「大きな政府」が度を過ぎて、「生府」、つまり生命をダイレクトに保証する国家が実現するということです。

 

しかしそのように徹底的に健康を管理された社会の中で、若者達は息苦しさを感じます。

主人公である日本の女子高生三人は、そのような社会を恨んで自殺を試みますが、一人を除いて失敗します。

そしてそれからさらに10年ほど経ち、あることをきっかけに世界が混乱に叩き込まれて…というおはなしです。

 

本の冒頭からプログラムの記述のようなものがあって、昔htmlタグでホームページをつくっていたことなど思い出しました。

恐らくプログラミングを職業とされている方は、よりこの物語に共感を持って入っていけるのではないでしょうか。

 

虐殺器官」が言葉によって破滅していく世界を描いていたとすれば、こちら「ハーモニー」は意識を排除することで平和な世界を実現するということを描いています。

 

「意識がなくなる」というのは一体どういうことなのか?

物語の終盤で、読者はこの問いにぶつかります。

そして、意識がなくなるということを想像する。

でも、ぜんぜんイメージできない。

眠っているような状況?

 

子供のときに、死後の世界を想像したことはないでしょうか。

その時に何かもどかしさを感じたことはありませんか?

私は今でもよく想像しますが、意識が存在しているから、肉体が滅びたとしても、自分の意識がどこへ行くのか、消えるのか、記憶はどうなるのか、そんなことを色々考えてわけがわからなくなります。

 

そして、要するに意識があるということは、「言葉」があるということに気が付きます。

自分の意識は「言葉」に支配されていることを知ります。

それは声に出さなくても、紙に書かなくても、自分の頭の中でとめどなく流れている言葉のことです。

それが「意識」なのではないのかと。

つまり、究極的な社会、人類が意識を失ったまま生き続ける世界というのは、「言葉」がなくなった、あるいは意味を持たなくなった世界なのではないかと。

ここで「ハーモニー」は「虐殺器官」につながります。

 

自殺のない、皆健康で争うこともない、極めて平和な世界、ある意味ではユートピアです。

そのような世界の実現のためには「言葉」を消滅させることが必要なのだ、と。

htmlならぬetmlというプログラミング言語で感情を作り出すような世界が本当のユートピアであると。

「言葉」なき世界こそが救われた世界であると。

 

でも、それって本当にユートピアといえるんだろうか?

 

そう思ったところでこの小説は終わります。

 

 

そんなわけで、私はこの二つの物語は、人間と言葉についての物語だなあと思いながら読みました。

私はSFはあまり読まないので分からないのですが、結構評価されているようです。

SFを読まない方でもぜんぜん読めるような、すばらしい小説ですので、まだ読んだことのない方は出来るだけ早く読んでしまわれたほうが良いかと思います。

 

なにせ、伊藤計劃が描いたような世界は、そのうちに実現してしまいそうですから、そうではないうちに読んだほうが面白いかと思います。