女のいない男たち 村上春樹

村上春樹さんの短編集発売:朝日新聞デジタル

扉を開き、物語の迷宮へ 村上春樹さん新短編集レビュー:朝日新聞デジタル

各所で話題になっていますが、村上春樹の新作短編集が発売になりました。

早速読みましたので、まず全体について極力ネタバレ抜きでざっくりと書いてみようかなと思います。今から読む人、買おうかどうか迷ってる人向けに。

読み応えのある短編集ですが、たぶん一気に読めると思います。のちのち個々の小説についても感想を記していきたいと思います。

「木野」「ドライブ・マイ・カー」については文芸春秋に発表された時点で感想を書いているので、以下のエントリからどうぞ。

村上春樹 新作 「ドライブ・マイ・カー」を読む - BANANA BOOK

村上春樹新作 『木野』 を読む - BANANA BOOK

 

ドライブ・マイ・カー

家福(かふく)という俳優の物語。彼は数年前に妻を失った男です。飲酒運転で車を運転することができなくなったので、渡利みさきという24歳の女性を運転手に雇います。車の中で、みさきと家福との会話が中心となり、彼の過去の回想が物語の主軸になっています。

家福はある事情から一人の青年俳優と友達になり、時々飲むようになるのですが、重要(?)な描写がこっそり隠れています。

それは何かというと、「その夜は青山の小さなバーで飲んでいた。根津美術館の裏手の路地の奥にある目立たない店だった。四十歳前後の無口な男がいつもバーテンダーとして働き……その日もやはり細かい雨が降っていた」(p.50)

何でもない、ただのお店の描写ですが、この短編集を最後まで読むとこれが「どこ」なのか、しかも「いつ」なのか解ってきます。(それはここでは書かないことにします)

ちなみに、文芸春秋に発表された時、問題になった箇所がありました。

運転手であるみさきが煙草のポイ捨てをする場面があるのですが、「それは北海道の○○では普通だった」みたいなことを書いてしまい、そこが実在する町名だったので、抗議がきたんですね。

その部分がどう変わったか(まあ、ばらしているサイトもあるみたいですが)、これはお楽しみにしたいと思いますが、村上春樹ファンであれば「そう来たか!」と思わせる地名になっております。未だに根強い人気を持つあの作品の地名がここで復活します。まあでも初めて読んだときから何となくあの作品が背景にあるのだろうなとは感じていました。村上さん、北海道が好きみたいですからね。

 

イエスタデイ

東京生まれ東京育ちなのに完璧な関西弁を話す木樽と、芦屋で育って当然関西弁を母語とするが東京にきて標準語しか話さなかった「僕」の物語です。

木樽が「僕」に、自分のガールフレンドと付き合ってみないかと言うところからお話は始まっていきます。舞台は早稲田大学で、「携帯電話なんか影もかたちもなかった」時代のお話ということです。しかも木樽には小学校からずっと付き合っている栗谷えりかというガールフレンドがいます。

どう考えても「ノルウェイの森」を連想せずにはいられません。なんせあれも女を失った男の話ですしね。

この作品には「三四郎」について触れた場面があります。村上春樹夏目漱石、うん、これも結構面白い主題だと思います。

この作品は文体が昔の村上春樹を思わせるところがあります。「スプートニクの恋人」が好きな私にとっては最高に面白く読めた短編でした。とにかく笑いながら読めます。いい小説の条件のひとつではないかと思います。

最後にナパ・ワインというアイテムが登場しますが、これも後々に絡んでくるアイテムです。やや意味深なかたちで。

そしてこの語り手である「僕」こと「谷村」が次の作品にも登場します。

 

独立器官

タイトルだけ見ると何か伊藤計劃の「虐殺器官」みたいですが、ぜんぜん違うお話です(当然か)。

こちらは村上春樹のむかしの短編っぽいです。語り手である作家の「谷村」の一人称で語れます。「僕」がジムで出会った医師である渡会(とかい)の恋の話です。ジムでスカッシュをして仲良くなる、というところがいかにも村上春樹チックですね。

渡会医師は美容整形の医師で、例によって経済的な苦労をしたためしがなく、プロフェッショナルとしての確実な腕があり、自分なりのルールに従った規則的な生活をしていて、高い知性を持ち、礼儀正しく、当然女にもてて、独身で結婚する気がなく、たくさんのガールフレンド(もちろん不倫)がいます。その渡会医師がとある女との出会いで……というお話です。

全作品の中でひょっとすると一番読み応えのあるお話だったかもしれません。しかし、家福にしても渡会にしても変わった名前です。さてこのへんには何か意味があるのだろうか?とついつい邪推してしまうのですが。

 

シェエラザード

シェエラザードというとどうしてもリムスキー・コルサコフのあれが浮かんでしまうのですが、とりあえず彼はこの作品の中に登場しません。

羽原(はばら、また変わった名前だ)という男は何かの理由で「ハウス」というところに匿われており、外に出ることができません。「1Q84」のセーフハウス的なものでしょうか。しかし羽原は男です。

彼の世話をしてくれている女性は、食料や本などを「ハウス」に届けるために週に何度か来るのですが、そのたびに羽原とセックスをします。なんでやねん!と言いたいところですがそこは少し抑えるとして、性交のあとに必ずお話をしてくれます。それがアラビアン・ナイトの話になぞらえられたシェエラザードというタイトルの由来です。

ここにも夏目漱石がちらっと顔を覗かせます。朝日新聞で連載が再開された「こころ」です。 

漱石、いま世界が読む 「こころ」100年で米シンポ・全集や新訳も:朝日新聞デジタル

この朝日の記事の中では逆に村上春樹のことが触れられているのですが、やはりこの両者の関係というのは興味深いですね。

シェエラザードの奇妙な恋の話がこの作品のメインなのですが、最後に羽原が「女のいない男たち」とは何なのか、この短編集の核心を突く台詞を吐きます。

考えてみれば、何らかの理由で隔離されてしまっているこの男こそ、ある意味では最も「女のいない男」らしい人物なのかもしれません。

 

木野

 

「まえがき」(珍しくそんなもの付けています)の中で著者自身がいちばん推敲に時間がかかり、仕上げるのがとてもむずかしい小説だったと言っています。

表題の「木野」はスポーツ用品の営業をしている男なのですが、出張から一日はやく帰った時に、妻が浮気しているまさにその現場を目撃してしまいます。このへんの設定は一作目の「ドライブ・マイ・カー」に通じるものがありますが、どちらかといえば対照的に描かれています。その場面を目撃したかどうかという点で。

それで会社も辞めて離婚してまさに女を失った木野は、仲の良い伯母がやっていた喫茶店をバーに改造して店を始めます。

その店になった神田(カミタ)という男が出てくるのですが、彼がこの物語を大きく動かしていくことになります。

柳の木、灰色の猫、三匹の蛇……そして女と暴力。この短編集の表紙に描かれているのは「木野」の舞台です。最も激しい比喩に満ちた作品のように思えます。読んでいて意味が解らなくなる、いかにも村上作品の長編らしい感じがします。

思うに「ドライブ・マイ・カー」と「木野」がこの短編集を支えている二本の柱なのだろうという気がします。明らかな対照が見て取れます。

 

女のいない男たち

表題作で、これだけ書き下ろし作品です。

書き下ろしということで、かなり自由に書いているような印象があります。春樹氏の言うところの、インプロヴィゼーションで演奏される長いソロを聴いているような感じです。

ある日、「僕」(白いTシャツにボクサーショーツといういでたちの)のところに電話がかかってきます。一人の女性が死んだという電話です。そこから物語が始まっていきます。この始まり方も「羊をめぐる冒険」を思わせるところがありますね。

この作品を読んでいる間じゅう、何となく「ダンス・ダンス・ダンス」を思い出しました。どちらもすっと読めるのに難解な感じがする。それなのに物語が体の中に確実に入っていくような感じ。

「女のいない男たち」だけは、明確な筋があるようでないお話です。そして多くのハルキストは「カンガルー日和」の中の「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という名作(?)を思い出すのではないかと想像します。

別に村上春樹はミステリー作家ではないのですが、大きな謎が残ります。「エム」とは何なのか。そして「僕」は一体誰なのか?

ヒントは色々と転がっています。というか、それらしいものだらけです。それが多分著者のいちばん言いたいことで、何十年も書き続けてきたことなのではないかなと。「風の歌を聴け」というやつです。よく考えたらデビュー作にほとんど詰っている気がします。

自分なりの理解というか、自分なりの物語を想像することができます。そういう小説だから面白くて、村上春樹は今日まで支持され続けているのではないかなという気がいたします。

 

さてさてそんなわけで、なるべくネタバレしない程度に書いてみました。

これは短編集なのですが、作品の間にはきちんと糸が引いてある感じがしました。これは村上春樹の短編集を読んできた中で、あまり感じたことのない類のつながりです。まだまだ新しい挑戦をしているということなのでしょうか。「フラニーとズーイ」に限らず、ばんばん翻訳も出しているようですし、これから更に素敵な物語を紡いでいって欲しいと願います。

 

いずれにせよ、一気に読める、充実した時間をくれる本だと思います。