心の内側と外側について

 

 佐渡裕という指揮者が興味深いことを言っている。誰かの受け売りの可能性はあるが、曰く、「感動する」ということは、「感じて動く」ということなのだと。実に彼らしい言葉のように思う。佐渡という人は常に感じて動いて来た人物だ。ブザンソンで賞を取り、バーンスタインに弟子入りし、フランスのオーケストラを手兵にし(むかしCDで聴いた「アルルの女」は忘れられない)、日本国内では、それまで不動の地位にあった東京佼成ウインドオーケストラ大阪市音楽団という二つのプロ吹奏楽団に割って入る形でシエナウインドオーケストラを組織し吹奏楽界に殴り込み、2012年にはついにベルリン・フィルを振った。おそらく彼の目標はもっと高いところにあるのだろうし、まだ動く事を止めはしないだろう。

 

 しかし私は、感動は必ずしも動くものでもない気がする。これは「感動」という言葉があまりに曖昧で、豊かな倍音を持つ為に起きる違和感だと思っている。私が言いたいのは、行動に結びつかない心の衝撃みたいなものも「感動」と呼びうるだろう、ということである。撞着語法的にはなるが、「静的な感動」も存在すると思う。佐渡は行動、いわば感動の結果について著書の中で語っている(と記憶している)が、私はその逆、つまり感動が心にやって来るまでの過程について少し考えてみたいと思う。あくまで私の主観だが、感動には心の内側から来るものと、外側から来る二種類のものがあるような気がする。

 

 まず、心の内側からやって来る感動についてだが、これは、心が湿って来るところから始まる。村上春樹の小説は私にとってこちらのタイプだ。いつの間にか、彼の紡ぐ物語は、私の物語になっている。実に見事だと言わざるを得ない。劇を見ているのではなく、劇の中に自分がいる。それはじわりじわりと、少しずつ湿るようにやってくる感動だ。稚拙な比喩を使えば、真っ白な大根おろしに醤油を一滴垂らした時のように、感動は少しずつ心を浸していく。だんだん深いところまで降りていく。そして最後には瑞々しい心を残す。村上春樹の小説を読み終えた時の私の感慨は、作品によって違いはあるものの、だいたいにおいて以上のようなものである。

 

 心の外側からやって来る感動については、例えば中山可穂の作品を考えてみてはどうだろうか。村上春樹と彼女の名前を並べるのに違和感を憶える方もいらっしゃるだろうが、私は中山が現代最高の小説家であることを微塵も疑っていない。無論贔屓目に見すぎている自覚はある。この二人の作家は私にとって、個人的に重要な地位を占めているのだ。中山の作品は私の心に外側から感動をもたらしてくれる。今適当な表現を思いついたのだがそれは「圧力」に近いくらいの強さを持っている。圧倒的なのだ。文章と物語が。完璧と言ってもいい。およそ私が物語に求めるべきすべてが詰まっていると言える。完全なリズム、完全な比喩、完全な構造。中山の文章は心の外側から抉ってくる。それは美しく巨大な建築物を見ている時の感慨に似ている。息を止めて、見とれているとでも云うのだろうか。彼女の小説は、いつの間にか私の胸の中に手を伸ばし、心臓を鷲掴みにして終わるまで離してくれない。読み終えたあとには、自分の心が変形してしまうほど強く押さえつけられていたことに気がつく。

 

 佐渡の「感動」の解釈を否定する形で私はこの文章をはじめたのだが、結局のところ、私も「静的な感動」のあとに、何かしら因果関係で回収できそうな変化を、行動を起こしているのかもしれない、などと思ってしまった。だが、それについては別の機会に取っておこう。あるいは音楽的な感動の質についてもまだまだ考えなければならないことがありそうだ。
 要するに、感動にも色んな種類があって、内側と外側、という違いがあるかもしれない、ということなのだ。しかしそれはチョコレートの包み紙くらいどうでもいいものではある。