ネットを深めるための旅 東浩紀著 弱いつながり

 

弱いつながり 検索ワードを探す旅

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弱いつながり 検索ワードを探す旅
 

 


 哲学者の東浩紀さんが「弱いつながり」という本を出したと聞いて、まず最初に思い出したのは三年前の大学での授業のことだった。
 その授業はコミュニケーションの歴史について扱ったものだったのだが、私の印象に残ったのはマーク・グラノヴェッターの「弱い紐帯の強さ」についての話だった。なぜそれに強く惹かれたかというと、その論文が逆説的だったからである。
 その授業が行われているときにちょうど東浩紀さんの「一般意思2.0」が発売された。私はそれを買ってすぐ読んだ。簡単にいえば、インターネットを用いた直接民主制の可能性についての本だった。大教室での授業のあと、その授業を担当していた教授に、東さんの提言は実現可能と思うかどうか訊いたことも覚えている。彼は「難しいかもしれないけど、おもしろいよね」と言った。
 このようにしてグラノヴェッターと東浩紀という名前はその授業を介して私の中でつながっていて、「弱いつながり」というタイトルを見た瞬間、「これは読まねば」と思ったわけだ。

 

 そうして読み始めた本書だが、予想通り最初にグラノヴェッターの話が出て来た。
 これについて少し説明しておこう。1973年に書かれた論文だが、未だに引用されることの多い、コミュニケーション論においてはかなり重要な論文である。以下のURLから参照することができる。

 

The strength of weak ties.(Granovetter.M)
http://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0,5&q=strength+of+weak+ties

 

 グラノヴェッターは、人が転職する際に、どういう情報源を参照するかを調べた。もっと言えば、どういう人を伝って職を探すかを調べたわけだ。
 グラノヴェッターは人とのつながりを二つに分類した。週に二回以上会う人物を「強い紐帯」に、そして週に一度以下か、あるいは一年に一度もコンタクトしないような人物を「弱い紐帯」とした。さて、転職の際に人が頼りにするのはどちらの「紐帯」なのか?
 結果が以下である。

 強い紐帯を経由……17%
 弱い紐帯を経由……83%
 
 転職後の年収や満足度についても、「弱い紐帯」を介して転職したほうが高いことが分かっている。これは逆説的な知見である。普通、いっぱい会っている人のほうが自分をより理解してくれているはずだし、適した転職先を紹介してくれそうなものだ。しかし実際の調査結果は逆になった。

 東さんはこの逆説的な知見から出発する。グラノヴェッタ—が示した「弱い紐帯(つながり)の強さ」を、どうやって手に入れるかというところまで手を伸ばしている。その方法について、自らの経験を交えて書いているのが本書「弱いつながり」というわけだ。


 その方法が「」であり、「新しい検索ワードを見つけること」なのだ。


 この発想には背景がある。それは、人は環境に依存する生き物であるということだ。要するに、環境次第で人間は変わるのだし、その環境を変えるためには移動するのがいちばん良い、という見方である。
 話は変わるが、前回のエントリで紹介した「西南シルクロードは密林に消える」の中にこんなフレーズがある。

 

……ドライブは単調で、苦痛にすらなってきた。寝不足である。暑い。車内で姿勢も変えられない。土埃もすごい。しかし、ジャングルを歩いていたころと比べればどれも贅沢な悩みである。人間はすぐ環境に順応する。順応してこらえ性がなくなる。そして、それを進歩とか文明と呼ぶ。


高野秀行著 講談社 『西南シルクロードは密林に消える』p.318

 

 二ヶ月間ジャングルウォークで大変な思いをした高野さんでさえ、一度車に乗ってしまえば盆の帰省ラッシュに巻き込まれた小学生のように文句を言ってしまう。言うまでもなく、高野さんはすごい人物である。早稲田の探検部時代から、人が普段行かないようなところへ(つまり危険なところへ)ばんばん行っている人である。しかしそんな人でさえ少しの環境で変わるのである。車に乗っただけで。

 

 そういうわけだから、東さんの「人は環境に依存する」という人間観はかなり説得力のあるもののように思える。そしてその環境を変えるためには旅をするのが良いと言っているわけだ。


 しかし東さんは、なにもバックパッカーになれと言っているわけではない。本書では、ひとつのところでがんばり続ける、いわゆる日本人が好むところの一所懸命タイプを「村人」と呼び、それとは逆に環境を切り替え、広い世界を見て成功を掴むタイプを「旅人」と呼んでいる。そして東さんが薦めているのは、その中間に位置する「観光客」になってはどうかということだ。 

 

 確かに、人は旅をすることで普段しないような行動を起こすことがある。これは環境の変化がそうさせるのだろう。またまた話は脱線するが、本書を読んでいて思い出した文章があった。

 

……三日間札幌にいた。べつに用事があったわけではなく、ついでがあったので一人でふらっと寄っただけである。
 それで札幌で何をしたかというと、まずビヤホールに入って生ビールを三杯飲んで昼食をとり(北海道で飲むビールはなぜあんなにうまいんだろう?)、それから「ランボー」と「少林寺」の二本立てを見た。次に夕食をとって、当然またビール。食後はジャズの店に入ってウィスキー。明くる日はまた映画館に入り、ウィリアム・ワイラーの「探偵物語」とビリー・ワイルダーの「サンセット大通り」、それから「炎のランナー」を見た。夜はまた酒。
 なぜわざわざ札幌まで行って映画を見なければいけないのか、僕にもよくわからない。しかし僕は知らない土地に行くと不思議に映画が見たくなってくる。だからこれまでにも日本国中で実にいろんな映画館に入っていろんな映画を見た。知らない街の知らない映画館に入って映画を見ていると、映画が妙に体にしみてくる。これはたぶん映画の楽しさが本質的にせつなさと背中あわせになっているからではないかという気がする。


村上春樹著 新潮文庫 『村上朝日堂』p.88

 

 これを初めて読んだのは高校生のときだったと思うが、「何やこのオッサン、せっかく札幌まで行ってんのに飯食ってビール飲んで映画見とるだけやん、もったいなあ」など思ったものである。しかし大学生、会社員になってみると、この「旅先で映画を見る良さ」みたいなのが何となく分かってきた。これは「旅先のコンサート」も同じで、地方オケの演奏に心打たれることがけっこう多い。おそらく心の状態がある種の——村上さんの言うところのせつなさと背中合わせになっている——受け入れ態勢に入っているから起こる現象だと思う。旅をすると心が絶妙に開く感じがする。このへんのことは以前のエントリでも書いた。

 

 話が大幅に逸れたが、東さんが言いたいことに通じるものがあるのではないかと思う。簡単に言ってしまえば旅をすると視野が開ける、的な、繰り返し言われていることなのだが、現代においてこの話が古来のそれと違うのは、東さんが「検索ワード」に着目したことだ。


 情報が価値を持つ時代と言われて久しいわけだが、もうそういう時代でもなく、今は情報を「持っている」ことより「いかに組み合わせるか」がひとつのスキルとして定着しつつある。グーグルグラスみたいなものが普及してくれば知識を問う試験は意味をなくすかもしれない。いかに検索するか、検索ワードを組み合わせるか、ということが問われている時代なのだ。


 その検索にオリジナリティを出すことが、たとえばビジネス的な観点からしても、均質化していく時代では価値を持つのだと東さんは言う。旅に出ることによって、普段しない行動をする、すると普段検索しない言葉が浮かんでくる。そうすれば新しい情報への道筋が開けてくる。

 

 ネットを捨てよ、旅に出よう
 ではなく、
 ネットを深めるために旅に出よう
 というわけだ。

 

 ここで書いた以外にも読みどころがたくさんある本だ。とくに「モノと言葉」についての話などは、歴史認識について頭を悩ませている人にとっても目を開かせてくれる部分だろう。たまには小説ではなく、このような本を旅のお伴に選ぶのも悪くないかもしれない。