寿司を食べているとき

 

 何と言っても人間は美味しいものを食べているときがいちばん幸福で、満たされていると思う。しかし興味深いのは、「美味しいもの」の定義が人によってかなり違うということだ。これは、好きな音楽とか、好きな人の顔のタイプとかより、よほど根源的で、生物的なことのように思える。

 

 なぜ私がそう思うかといえば、これはもちろん推論に過ぎないのだが、味覚というものは、聴覚や、視覚に比べて、社会化されにくい気がするからだ。

 もちろん、一定の社会化は存在していて、年収や生育環境による好みの差異というものは、ある程度まで分析できるのだろう。しかし、味覚と、あと個人的には嗅覚というものも、比較的本質的な差異を生むものだと考えている。言い換えれば、食の好みと、匂いの好みに、表面的でない、本当のその人の個性みたいなものが現れていると思う。

 

 いちばん好きな食べ物、というものがその時々によって変化するのは当然のことだ。しかし私の場合、寿司という一点は、絶対に揺るがないのである。

 

 寿司を食べていると、何というか、他の何もかもがどうでもよくなってくる。「幸せだなあ」と呟いてしまうくらい、自分が充足しているのを感じる。ほとんど不思議な感覚と云っても良い。

 

 例えば他にも好きな食べもの、料理はたくさんあるのだが、寿司ほど幸福になれる食べものはない。言うなれば、ある種の「開放感」みたいなものを感じながら食べている。おそらく、寿司を食べるということの自由度が高いからなのだろう。自分が食べたいものを、気分で、一つずつ頼んでいける。この自由さは他の食事にはちょっとない。そう、私は自由を何よりも愛しているのだ。寿司を食べることの幸福はつまり、自分が自由であるということを噛みしめる幸福なのである。