艱難汝を玉にす?

 

 たとえば今私は、一週間以上休みなく働いたりすることがある。ただでさえ土曜日出勤なのだが、ときどき日曜も休めないこともあるのだ。しかしそれを特に苦痛だとも感じてないし、「クソ、休みたかったのになあ」とも思わない。必要だから働く、という意識でいる。


 しかし前の会社にいたときは、出社することがまず苦痛だった。何なら、う~、と声に出しながら電車に乗っていたかもしれない。仕事をしているときも、終わったあとも、常に気怠かった。休日は普通に週2日あったが、そのときに感じる憂鬱は何なら平日以上だったかもしれない。なぜこのような差が生まれるのか。

 

 これに対する答えは明確で、今の仕事に私が全くストレスを感じていないからだ。全く感じないというのは嘘だろう、と思う人がいるかもしれないが、断言できる、全く感じていない。なぜなら今の私は何かに縛られていないからだ。完全に自分の裁量で、自分のために仕事ができていると感じている。失敗することもあるし、厳しい批判にさらされることもある。しかし縛られてはいない。それほど大きな困難を感じて仕事はしていない。


 どうも、私は何かを命令されたり、強制されたりすることにストレスを感じる人間らしい。今の職場には上司がいない。私に命令をする人がいない。だからストレスがないのだろう。しかしこれは全ての人間に当てはまるわけではないとも思っている。命令する人がいない、という状況の方がストレスになるという人もいるはずだ。だから、これはあくまで個人の性質の問題ということになる。この仕事を辛くて辞める人もいるのだから、向き不向きがあるという話だ。

 

 この話はこれでおしまいなのだが、ここで一つの問題が提起される。それは、私は成長しているのか? ということだ。

 

「艱難汝を玉にす」という言葉がある。私も好きな言葉だ。簡単に言えば、人間というものは、さまざまな障害や困難にぶつかり、それらを解決し、乗り越えてゆくことで成長するという意味の言葉だ。

 

「困難」をストレスと言い換えても良いかどうか、多少の議論はありそうだが、ストレスが伴わないものを困難と呼ぶのは難しいだろう。話を単純化するために、ここでは「ストレス」と言い換えることにする。新しい問題提起が生まれる。

 人は、ストレスを感じなければ成長しないのだろうか?

 

 これに対し、おそらく、ストレスを感じずに成長することはない、と回答する人の方が多いのではないかと推測している。世の中には実にそのような言説が溢れている。ストレスを感じ、苦しんでいる人に対して、そういうものだ、そうやって成長していくんだ、俺(私)も若い頃は…といった具合である。わからないではない。「苦労は買ってでもしろ」ということわざに顕れているように、苦労=成長の糧と考えている人は多いようだ。「艱難~」のことわざが好きだと言っておいてこう言うのも何だけれど(好き、というのは同意しているという意味ではないのだ)、私は苦労やストレスが成長に寄与しているというありとあらゆる言説に対して、どうしても懐疑的である。

 

 ここで、少したとえ話をしてみたいと思う。科学的な根拠は少し目を瞑っていただくとして、身近な例として、ブルーベリー(目が良くなる)と牛乳(身長が伸びる)という食べ物を考えてみたい。このあたりの因果関係はある程度はっきりしていると思うのだが、仮に、ブルーベリーと牛乳が何に効くのか分からないという人が、毎日その二つをたまたま摂取したとする。しばらく経つと、何だかメガネをかけなくても周りがはっきり見えるようになった。と、この人が、「牛乳を飲んだら目が良くなった」という言説を生成する可能性はないとは言い切れない。そしてこの人は、誰か目があまり良くない人に、「お前も牛乳を飲め」と薦めるかもしれない。

 

 この話がおかしいのはおそらく誰もが理解できるはずだ。この牛乳を、ストレスとか、苦労とか、そういう言葉に置き換えてほしい。確かにこの人は目がよくなった(成長した)かもしれないが、それは実際にはブルーベリー(苦労でない何か別の要因)のおかげであって、牛乳のおかげではないのだ。

 

 経験というのはこのくらいあいまいで、不確かなものである可能性を常に秘めている。経験論を私が軽視しがちなのは、こういうケースを想定してしまうからなのだろう。牛乳くらいだったら副作用がないからいいものの、ストレスのある環境に身を置け、成長するから、というのは相当危険なことのように思える。

 

 しかし実際問題として、「若い頃は苦労しなさい」と言われ、自分にとってストレスの多い環境に飛び込む人間は多くいる。そして何より人間は科学では割り切れない生物なので、まったく成長していないどころか後退したかもしれないのに、そういう環境に飛び込んで数年後には、「俺(私)は苦労の多い環境で頑張って圧倒的に成長した」と思い込んでしまうことができる。そしてこの言説は「成功体験」として再生産されてゆく。このへんが人間の強みというか、ある意味naïf(素直・正直・お人よし)なところなのだなあと思う。

 

 しかし、この再生産されてゆく言説は、naïfで片づけられなくて、時には凶器となりうる。ストレスが成長に寄与すると思い込んで耐え続けた結果壊れてしまった人もいる。だから私はその凶器に対抗する手段として、あえてストレスで人間は成長しないと言いたい。少なくとも主要因ではないと言いたい。ストレスや苦労とは全く別の経験が人間を成長させるはずなのだ。そのことはまた別の機会に書きたいと思う。