「己の欲せざる所は人に施す勿れ」という倫理について

 

 

 この間遅い昼食を取りに松屋に入った。よく松屋へ行く。この夏は冷やしとろたまうどん+ミニ牛めしセット税込630円をよく食べている(夏に書き始めた文章だったので、今読むと寒い)。個人的に、バランスが良くて気に入っている(栄養バランスはひどそうだが)。その日もそれを注文して、カウンターに座って料理が運ばれてくるのを待っていた。

 

 平日の三時過ぎだったから客は疎らで、カウンターの向かいにサラリーマン風の男性が座っていて、あとは学生が何人かいるくらいだった。その、私の向かいに座っている男性は、牛めしか何かを食べていたのだけれど、食べ終わると、店員を呼んで、小銭を出して何かを注文した。松屋は基本的に食券を買うのだが、そういうこともできないでもないらしい。注文したのは、ハイボールと卵焼きか何かだった。

 

 食券を使わずに注文するのも、昼間からハイボールを飲むのも、べつに構わないと思う。しかし、その注文の仕方が、いやに横柄だった。具体的に言葉が偉そうというわけではなく、ただ、態度が横柄なのだ。傲慢と言っても良かった。ときどき、こういう人に出くわす。なるべく関わり合いになりたくないなあと思う。しかしそこで、思考が少し展開していった。

 

 私は間違っても、そういう風に横柄な態度を取らない人間だ。というか、取れない人間なのだ。牛丼とうどんが目の前に運ばれてから、それがなぜだかを考えてみた。

 

 人間ができているとか、育ちが良いとか、躾がしっかりしていたとか、そういうことではなくて、ただ「怖い」のだ。「怖れて」いるのだ。何を怖れているかというと、そのような傲慢な態度を店員に取ったとして、それで牛めしがまずくなるとか、そういうことを(ま、あるかもしれないけど)怖れているわけではない。私が店員に対して横柄な態度を取ったことが、どこかで巡り巡って、自分の仕事で相手にしている客に横柄な態度を取られることにつながるのではないか、ということを怖れているのだ。私は客にそういう態度で接されるのが、とても嫌いだからである。ある意味で、意気地なしなのかもしれない。

 

 これは「己の欲せざる所は人に施す勿れ」という諺が言い表していることだろう。孔子が言ったそうだ。たしかにうなずける。

 

 この諺を、もう少し論理的にわかりやすくするために、ひとつの命題として考えてみたい。現代語的に書くと、「自分が他人にされたくないことを、他人にしてはならない」となるであろう。この命題の逆は、「他人にしてはならないと自分が思うことは、自分が他人にされたくないことである」というものになる。真である気がする。さきほどの例で言えば、「横柄な態度を取るべきではない」と自分が思うのは、「他人に横柄な態度を取られたくない」ということだから、私はむしろ、孔子の命題の逆を考えていたのだろうということがわかる。

 

 では裏の命題は何かというと、「自分が他人にされたいと思うことは、他人にしてよい」となる。ここまで考えて私の箸の動きは止まった。どうだ? これは真か?

 

 私はこれは真ではないと思った。「自分はこうされたいから」、「他人にもしていい」というのは、往々にして善意の押し売りみたいになる。もう少しこの命題を人間の現実に即して言い換えてみると、「自分 ”だったら” こうしてほしい ”だろう” から」、「他人にしてよい」というなる。一度ひどく酔っ払った時に、これを感じたことがある。その時はベルギーにいたのだが、吐きそうなほど気持ち悪い時に、ベルギー人の友人が、どこからかハンバーガーを買ってきて、笑顔で私にくれた。友人曰く、ハンバーガーを食えば治るというのだ。これは冗談ではなく、本気だった。彼にとってはそれが真実なのだろう。しかし私からすれば、仮に医学的に正しいとしても、そんなものはいらなかった。欲しかったのはコップ一杯の水と、横になることができるベッドだ。しかし青ざめている私に対しても、どんどんビールが注がれていったのだった。「いや、お前はそうかもしれんけど、」ベルギーらしい話ではある。というように、大小問わず、文化的な差異があるところでは、この裏の命題が真ではないことが、日々確かめられているように思う。

 

 最後に、対偶を考えてみよう。対偶というのは、「裏の逆」である。一般に論理の世界では、ある命題が真であるならば、その対偶もまた真であるという。つまり、孔子の命題を裏にし、それを逆にしてみる。すると、「他人にしてよいと思うことは、自分が他人にされたいことである」という命題が得られる。ここにおいて、確かに論理は正しいようだ。対偶の命題も真である気がする。

 

 これをやはり人間的に、柔軟に、曖昧に、論理の冷たさとは対照的に、温く考えてみると、人間というのは、「自分が他人にされたこと」を積み重ねていった基準を持っていて、それを尺度として、「自分が他人にする」ようになっていくのではないだろうか。ここまでやってきて、ようやく冒頭のサラリーマン風の男の行動が、少しわかった気がする。

 

 店員に横柄な態度を取ったその男を見て、私とは違って、あの男は、他人に横柄な態度を取られることを怖れていないのだな、と感じたのだが、むしろ逆で、あの男は、周囲の他人に横柄な態度を取られ続けた結果、あのように店員に接してしまったのではないか、という仮説が誕生したのである。なるほど合点がいく。そりゃ、昼間からハイボールでも飲みたくなる。いや、案外、積み重ねた基準などではなくて、ついさっき仕事で、客なり上司なりからずいぶん雑に扱われて、それでイライラしていたのかもしれない。それでつい、ということも考えられる。普段はもっと丁寧な人間なのかもしれない。

 

 そこまで考えて昼食を終えたのだが、ほとんど無駄な思考であったと悟った。なぜなら、真実はわからないからである。彼はもともとそういう人間なのかもしれないし、たまたまその瞬間がそうだったのかもしれない。ただ一つ、その日牛丼屋で学んだことは、人の行いというのは、どうやら伝播するものであるということだ。孔子もおそらく、そのことを言いたかったに違いない。横柄な態度は、別の横柄な態度を生んでしまう。

 

 であるならば、なるべく丁寧な態度で生きるということが、この世界をわずかでも善い方向へ傾けてゆく努力なのではないかと、そういう大それたことを思って店を出た。