橋を渡るとき

 橋を渡るということは、日常の風景といってもよいと思う。橋を渡ったことがないという人は、おそらくかなり少ない。私も橋を渡る。ただし毎日ではない。毎週日曜日、淀川に架かった大きな橋を渡って、枚方市から高槻市へ行く。大阪を知らない人には不明な話だろうけど、要するに川のむこうの隣の市へ行くということだ。私は高槻の吹奏楽団に所属している。

 

 徒歩ではなく、バスで渡る。なぜだか解らないのだけれど、バスの窓越しであっても、橋を渡る時に見るさまざまな風景に、何かしらの幸福を私は感じている。おそろしく雑な喩えなのだが、「MPが回復する」感じがある。あれは一体何なんだろう。

 

 何かのアクションゲーム(ゴエモンとか、マリオとか、何かしらそういうの)だったと思うが、面が変わると体力が回復するとか、あるいは残機がひとつ増えるとか、そういうのがあったと思う。「MPが回復する」というのは、何となくそういうゲーム的な連想を私がしてしまうからなのだが、とにかく、橋を渡るときにエネルギーを「どこかから受け取っている」気がしてならない。なぜだか力が湧いてくるのだ。

 

 それはむしろ、警告の類なのかもしれないという気もする。保田與重郎の『日本の橋』にも書いてあったけど、橋というのは端であり、果ての地であり、つまり「この世とあの世を結んでいる」ものとして、日本だけでなく、多くの文化圏でそのように機能してきた象徴なのだ。

 

 

「ここから先は、こことは違う世界だぞ」という警告を、どこかから受け取っている。架空の、太古の橋を想像する。時空を超えて、はるか昔にその場所にいた人は、もしかすると、命がけでこの橋を渡っていたのかもしれない。実際、高槻市枚方市という、現在では非常にローカルな狭さの中の街でさえ、昔は違う国――摂津国河内国――だったのだから。

 

 橋という場所に限らないのだろうが、私が思うに、橋という場所は特に、何かしらの重たい記憶が集積している場所のような気がする。保田與重郎は、やたらと日本の橋を哀しいものであると捉えているようで、私もそれにほとんど同意する。保田ほど重厚な物言いはできないけれど、何となくセンチメンタルな存在じゃないか、橋って……という気はするけれど、それだけでは、私が橋を渡るときに感じるあの幸福感は説明できない。

 


 おそらく、これは私個人の性質の問題だ。どちらかといえば能天気な人間だから、「気をつけろ、ここから先は別の国だ」という警告や、「ここでこの世はおしまい。一歩渡ればあちら側」といった感傷よりも、「ようこそコチラへ! まだ見たことのない景色が待っているぞ!」という方に捉えてしまうのだろう。といっても、決して冒険好きなのではない。海はまたぎたくない。ぜんぜん違う所へ行くのは気が滅入る。「ちょっとした差異」が好きなのだと思う。という、せいぜい橋を渡るくらいのところが、私の限界なのだけれど。