実るほど……

 


実るほど 頭を垂れる 稲穂かな

 

 

 という言葉がある。すばらしい俳句であり、警句でもある。確かに稲穂は、実れば実るほど、中身が充実してくれば充実してくるほど頭が垂れてくる。それはいわば重力の影響であって、あくまで自然科学的に分析可能な現象にすぎない。しかしそんなただの現象の一コマを切り取っただけのこの俳句から、日本人は、どうやら人間も稲穂のようにあるべきだということを言いたがるらしい。

 

 しかし冷静に考えてみると人間は直立二足歩行動物として進化した猿のひとつの種であって、現存する種の中でこの様式での歩行が可能なのはヒトだけである。われわれは基本的に「背筋を伸ばしてまっすぐ前を向いて歩ける」ということをアイデンティティにしているはずなのである。また、そのことと脳の容積は無関係ではないだろう。頭を垂れないから、進化できたし、頭を垂れないから、科学や言語や歴史を手にした、と云えないこともない。だとすれば、頭を垂れる稲穂とは、人間のアイデンティティを否定しかねないメタファーなのではないか……。

 

 私にとって、この二つの題材は興味深い示唆を与えてくれる。どちらが正しいというのでもない。どちらも正しいのである。

 

 冒頭の俳句が言いたいのは何も実際の頭部のことではない。要するに、成功すればするほど、人は謙虚になるべきだ、ということをあらわしている。

 

 なぜそのようなことをわざわざ俳句で言わなくてはならないかというと、人間は基本的に、成功すれば成功するほど傲慢になるからである。これはどんな人間でもそうだと私は思っている。なぜなら人間は直立二足歩行ができるから。

 

 だからこそ、昔の人はあえて言ったのだ。どんなに能力があり、冷静で、周りのことが見える人間であっても、人間というのは成功すればするほど背が高くなっていくんだから、「努力して」謙虚にならないといけないのだと。謙虚、ということは、人間性に対する評価ではない。謙虚であるための心理的な技術が存在するのだ。

 

 成功したにも関わらず周囲への感謝を忘れず丁寧に生きる人を指して、私たちは頭を垂れる稲穂であると言う。あえて否定しよう。稲穂とは違うのである。そう見える人は、実は謙虚になろうとものすごく努力をしているのである。この人は謙虚だなあ、と偽りない心であなたが感じる人に出会ったとしたら、その人は例外なく努力の人といっていい。謙虚であるという状況は数学における極限のようなもので、それに触れることはできず、ただ謙虚とよばれる状態に限りなく近づいている、ということなのだ。そんな人間だから本当に立派なのだ。