「物理ボタン」という表現に衝撃を受けたのは私だけなのだろうか?

 

 よく言われる話だけれど、もうビデオテープを見る人はほとんどいないらしい。DVDか、ブルーレイか、Youtubeか、そのへんで動画を見るのが普通になっている。それでも私たちは、ビデオとか、フィルムの名残で、「巻き戻す」という言葉を使う。もう巻かれたものは存在しないというのに。 

 

 そもそも動画自体、テレビで見ることが減ってきた。スマートフォンやらタブレットで見ることが多い。いま私が使っているスマートフォンは三台目で、今年の一月に買い替えた。二台目のスマートフォンは、だいたい四年半、比較的長い時間使っていたから、いまのスマートフォンに慣れるまでけっこうな時間がかかってしまった。今のスマートフォンは、前のものと違って、「物理ボタン」がない。

 

 この「物理ボタン」という表現が私を悩ませている。「物理」ってなんだ、どういうことだ。

 

 ボタン、という名詞は、物理的実在を前提としているはずだ。ボタンごときに、いちいち、「物理」をつけなくてはならないということは、ほとんどの普通名詞、現実に物理学的に存在しているものを描写する名詞に、「物理」をつけなくてはならないのではないか。

 

 物理鉛筆、物理消しゴム、物理コップ、物理時計……。

 

 いや、そうなのである。たぶん、そうなのである。そうなっていくのである。

 

 我々はどうやら、「仮想ボタンが実装された」とは言わず、「物理ボタンが廃止された」と言うらしいのである。

 

 いままでもおそらくこういうことはあったはずだ。たぶん、「物理キーボード」「仮想キーボード」みたいな表現はあったと思う。キーボードは、もともとパソコン周りのものという意識があるので、仮想化されても、その表現が(個人的には)あまり引っかからない。しかし、ボタンって、わりあいヴィヴィッドな、トラディショナルな、リアルなものとしての認識が強いものである。それが仮想化されていて、その反対表現として「物理ボタン」を使うという状況は結構、衝撃的ではないだろうか。しかも「物理ボタン」という言葉は、わりあい普通に使われているようなのである。

 

 

 

juggly.cn

 

 

 こうして、試合の終盤でオセロの白黒が反転していくみたいに、やがて仮想は現実を凌駕していくだろう。いろいろな言葉に、「物理(的)」という形容詞を使わないと、言語的コミュニケーションの場で仮想:物理の区別ができない時代がもう来ている。

 

 でもたぶん、変な予感だけど非物理的ボタンでも、どちらかといえば「押す」って言うんだろうな。「タップする」とは言わない気がする。もうすでにそうなっているのかもしれないけど、例えば核ミサイルのスイッチが、仮想ボタンだったとして、「アメリカの大統領は核ミサイルの(仮想)ボタンをタップする権限を持っている」では、いまいち迫力がない。そこはpushだろう。「押して」はなくても、「押す」のほうがしっくりくる。「戻す」より「巻き戻す」の方が、文字数が多いのにもかかわらず適切である気がするみたいに。こう考えると、名詞に比べて、動詞のほうは結構しぶといなあ、と思ったりもする。