数学と私 その1



1.算数と私

 根性のない子供だった。今では信じられないが、幼稚園の頃はガリガリに痩せていて、かけっこなどはベベ、リレーなんかが大嫌いだった。自転車も、逆上がりも駄目で、要するに、「できるまでやってやろう」という気概がない、ひょろひょろした子供だった。

 

 勉強なら、せめて、という想いが両親にあったかどうか解らないが、中学受験のための塾に小学2年の時から入れられ、みっちり勉強させられたが、算数が「できた!」と思った瞬間は、およそ5年間の受験生活でただの一度もなかった。


 4年生くらいになると、電話帳みたいに分厚いテキストを渡され、毎週苦しんで難問に取り組んだ。時には本当に泣きながら解いた。今でも覚えているが、各セクションの章末には、「S問題」とかいう凶悪なのがあって、手も足も出なかった。それでもやっていかなければならないのである。塾に行く時間のギリギリになって宿題ができていないことが判明し、母に「どうすんのよ」と詰られ、結局父の会社にFAXで問題を送って教えてもらうのだった。

 今思うと、父はどんな気持ちでそのFAXを受け取っていたのだろう。

 

 塾になぞ入れるんじゃなかった、金も時間も取られて、と思っていたか、それとも「こんなに難しいものをやらされるのか」と驚いていたか。おそらく、その二つが入り混じったような、複雑な気持ちでFAXを眺めていたのだと思う。

 

「いや、お前は算数できてたよ」と父は、当時を振り返って言う。


 4年生か5年生の夏のことだと思う。祖父が独りで住んでいる徳島の、ずいぶん辺鄙なところにある父の実家に帰って盆を過ごしていた。近くに美しい静かな川があって、毎年その冷たい川で泳ぐことが私の夏の楽しみだった。

 しかし盆にも当然宿題がどっさり出る。私は、大阪から持ち込んだその課題を、居間の卓袱台で、朝食のあと、川に遊びに行く前に唸りながら解いていた。

 父曰く、私は8ケタ+8ケタの足し算(何かの役に立ったのだろうか?)をやっていて、プリントに、もう、顔が接触するくらい眼を近づけて、数字を凝視しながら鉛筆を走らせていたそうだ。その姿を、父と祖父はこっそりのぞいていたらしく、祖父はずいぶん感動して、「あいつは根性があるな」と言ったらしい。

 そういう意味で「算数ができていた」のだそうだ。

 結局、一向に算数が得意にならぬまま、何やら根性だけはついたらしい。その代わりに恐ろしく太って健康優良児みたいに(今もさして変わらない)なったが、国語と社会でガッポリ稼いで中学受験を突破し、とある私立中学に入ったのだが、算数が苦手な私は数学でもちゃんと一学期から壁にぶつかるのだった。