夢は名詞じゃなくていい
長い間感じていた違和感の正体がスッと理解できる、姿が見えることがある。私にとっては「ついさっき」がその瞬間だった。帰宅して手を洗い、テレビをつけて洗濯物を畳んでいるときに、「ああ、そういうことか」と得心がいったので、そのことを忘れないために今この文章を書いている。
その感覚を凝縮したものが、タイトルにも示したように「夢は名詞じゃなくていい」という、スローガンのような一文である。
違和感を感じていた言葉が、「夢」である。
むかしからこの言葉にずっと違和感を抱いていた。
あなたの夢はなんですか、みたいなことは、人生のどこかの時期で訊かれることの多い質問だと思う。そのときに、多くの場合は名詞で答える。
医者になりたい、プロ野球選手になりたい、弁護士になりたい、等々。
私はずっとまえからこの質問にうまく答えられなかった。なぜなら、自分が将来なるべき名詞が見当たらなかったからだ。
名詞じゃなくてもいいんじゃないか、という気がする。
たとえば「仕事を通じてたくさんの人を幸せにする」とかでもいいと思う。この場合は、夢は動詞になるなるだろう。「する」なのだから。
もっと言えば、職業でなくてもいいと思う。
幸せな家庭を築く、これはこれで立派な夢だろう。たくさん子供をつくる、これも夢だ。死ぬまでにマーラーの二番を演奏する、とか、もちろん趣味だって夢になり得るだろう。
ここまでは、むかしから繰り返し考えてきたことだった。
今日わたしが、さっき、テレビのCMをチラッと見たときに(そのCMは夢を持とうとか、そういう類のことを言っていたと思う)考えたことは、名詞でも、動詞でもないところに夢の正体を置いてもいいんじゃないか、というアイデアなのだ。
つまり、夢は「副詞」でもいいんじゃないか、ということだ。
副詞というものが日本語文法でどのように定義されているかは不勉強でわからないので、ここでは便宜上英語を例にとって考えてみる。私は英語(もフランス語も)の品詞の中では副詞というものがいちばん好きだ。
副詞とは何か。手元に旺文社の「ロイヤル英文法」があるので引いてみると、
副詞は動詞を修飾するだけでなく、形容詞やほかの副詞も修飾し、さらに名詞、代名詞、副詞句・節、そして文全体を修飾するなどの働きをする。
たいへんな働きものである。ハッキリ言ってどういう働きをするのかまったくわからない。それもそのはずで、絶版となってしまったが最高の英和辞書の一つであるヴィスタ英和辞典のコラムには(うろ覚えだが)、「要するに、他の品詞では分類しようがない言葉(たとえばyesとかnoとか)をとりあえず副詞に放り込む」みたいなことが書いてあった。
少し脱線したけれど、日本語でいうと、たとえば「早く」走るとか、「月々」支払うとか、「絶望的に」愛してるとか、そういう感じの言葉がとりあえず当てはまってくる。
夢が副詞でもいいではないか? というのはつまり、「善く」生きよう、とか、「楽しく」仕事をしようとか、そういうのでもいいんじゃないの、ということなのだ。
内村は、後世へ残すべきものの第一は「金」であるという。非常にリアリスティックだ。そして二つ目が「事業」という。金も事業も残せない人は、思想(文学)だという。さらにそれも無理なら、何かを残す人を育てる教師になれという。
この四つどれも無理なあなたは……というところで、内村はこう語りかける。
事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として消えてしまわなければならぬか。……(中略)……私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。……(内村鑑三著 『後世への最大遺物』より引用 強調筆者)
勇ましく、高尚に生きる。私の夢はまさにそういう副詞的なものだと思う。