大人になる瞬間

 

 あなたは、「大人になれよ」と言われたことがあるだろうか。私は、ある。それ以来、「大人」とは何か、何者なのかをよく考えている。

 

 私は29歳で、いい大人だ。大人のなかでも、ルーキーとは言い難い。それでもまだ、自分の中に子供らしい部分があるのを感じて、それは死ぬまで続くモノなのだろうか、もしそうだとしたら、子供が成長してやがて大人になるという構図自体が、勘違いに過ぎないのではないか、と思うことがある。

 

 逆に、老成した子供というのもいる。「およそその歳では信じられない」という枕詞に似合う子供がいる。そのような子供は、子供だけれども、大人の部分がある、と言えるかもしれない。こんな風に、子供だとか、大人だとかいうことは、結局その人の特定の部分しか指し示せない、実に限定的で曖昧な表現なのだ。

 

 これは大人と子供に限った話ではない。

 

 たとえば、「善人」と「悪人」だってそうだ。完全な善人も完全な悪人も存在しない。それに、人間には誰にも知られることがない秘密があることを考えると、人間を完全に理解するということは、七つの海のいちばん深いところまでくまなく泳ぐことより難しい。

 

 そんなことは承知の上で、自分なりに、「大人」とは何なのか、「大人」と「子供」の境界線はどこにあるのかということを、見極めてみたいという欲望がある。

 

 

 社会という視点から考えてみると、「大人」という概念自体が、社会の円滑な運用のために使われている言葉であることがわかる。要するに、デュルケムの云うところの「社会化」(socialization)が一定程度なされていれば大人、そうでなければ子供、という話だろう。要するに、社会的な規範を身につけているかどうかということだ。

 

「大人になれよ」という日本語はこの点を実にうまく言い表していると思う。

 

 身体的、年齢的な大人に対して、社会化されていない部分を指摘するためにこの言葉は使われる。それは暗に非難しているということだ。

 

 しかし実は、それは一方的な価値観の押し付けかもしれない。社会的な規範というものは、流動的なものである。不確かで、曖昧で、相対的なものだ。目の前にいる相手に対して、「大人になれよ」と言い放つことは、社会的な規範などという大仰で不明なものを持ち出さなければお前を納得させられない、と宣言しているに等しい。

 

「大人」と「子供」という言葉には、社会での存在以外に、もっと豊かで複雑な対立があると思うのだ。

 

 

 大人であるとか子供であるとかは、もしかすると、個人の内面の話ではなく、外的な状況によって定義されるのではないか、ということを考えてみた。

 

 シンプルに、自分に子供ができれば、子供としての資格を失うと考えてみるのはどうだろう。そこではじめて、人間は完全に大人になる、と。

 

 そういった価値観も存在するだろう。人間は何のために生きるのか、それは、子孫を残すためだと言い切った知人がいる。私は同意しないが、それもひとつの見識だろう。

 

 そうであるとするならば、大人になるということの定義がすなわち、子供を持つ、つまり親になるというのもうなずける。育てられる側から育てる側への転換が、大人になる瞬間であるという解釈だ。

 

 つまり、生物としての目的を達成したホモ・サピエンスのことを、ひとまず「大人」と呼ぶということだ。しかしそれはまやかしに過ぎない。「子供」という言葉には二つの意味がある。親に対する子供と、大人に対する子供だ。

 

 子供ができた時点で、親であることは確定する。だが、大人である子供がいるように、子供である親も存在するのではないか。

 

 親という言葉と大人という言葉の間には、微妙な、しかし確実な差異がある。私は「大人」の定義を求めているのだ。いくつの時代を経てもビクともしない巨大な一枚岩のような、厳密で、後戻りができないような、完璧な定義を。

 

 個人的な話をしよう。もう2018年は終わろうとしているが、今年は祖父と祖母がいっぺんに亡くなった。

 

 私が生まれた時、私には祖父と祖母が一人ずつしかいなかった。母方の祖母と、父方の祖父だ。祖父は徳島で、祖母は北海道でそれぞれ亡くなった。どちらも九十を越していたから、大往生といってもいいかもしれない。とにかく、私という人間に、もう祖父と祖母は存在しないことになる。

 

 そのことを、父と母に置き換えてみると、彼らは、当然、父と母をそれぞれ喪ったのだった。両親はそれぞれ六十台だから、親を喪うということは、それほど珍しいことでもないだろう。だけど私は、「この人たちは、もう、少なくとも誰かの子供ではないんだな」と思った。

 

 もちろん、亡くなったからといって、誰かの子供でない、ということはない。それは理解している。しかし、この世界(生者の世界)における存在として、親の不在は、子供ではない、子供ではいられないということを、間接的に示しているだろう。

 

 両親はたまたま私と私の姉の親であるから、ずいぶんまえから親でもあるのだけれど、それよりずっと昔から子供でもあったのだ。

 

 祖母の位牌を捧げ持って、薄寒い五月の函館の寺の石段を登っているときに、ふと私は思った。母は、子供ではなくなった。それが大人であるということなのではないか、と。

 

 今のところ、それが私の消極的な大人の定義なのだった。大人とは、こうである、ではなくて、大人とは、子供では「ない」ということが完璧な定義なのだ。

 

 その定義に随うと、私は幸運なことに、29歳でありながら、まだ子供らしい。あの日、「大人になれよ」と言われて大人になれなかったのも仕方がない、と諦めもつくのだった。