現実逃避
シャワーを浴びている時はなぜだか反省してしまう。「あんなコトあんな風に言うんじゃなかったな」とか、「はー、昨日洗濯しておけばよかった」等々。たぶん、うつむいて湯を浴びるから自然と姿勢が反省をうながすのだと思う。そういう時、たまに、「俺の人生には意味があるのだろうか」と考えたりする。
ププッ、29にもなって、ヤダなぁ、よっぽど暇なんですねぇ、と言われても仕方ないが、そういう、無意味や無駄に思えることを真剣に延々と考えるというのも個人的な贅沢のひとつだ。
いやいや、もっと現実と向き合いなさいよ、という人もいるだろうが、逆に問いたい。あなたは本当に現実と向き合ったことがあるのか、と。試しに何かの現実と向き合ってみてほしい。税金でも保険でも不倫でも出産でも介護でも趣味でも仕事でもZOZOTOWNでも鍋の具材でも何でもいい。どこまでも向き合ってみてほしい。最終的な答えは「死」にならないだろうか。(e.g. 今夜の鍋の具何にしよう→そもそも今夜家に帰ってこれるのか?→あ、死ぬかも 等)
私が繰り返し考えてきたのはこのことだった。いつも死が邪魔をする。どんなことでもいいけれど、ものごとを突き詰めて考えると、必ず最後には死が待っている。当たり前のことである。
そのことを、鴨長明は、
”行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。”(方丈記)
(意訳:どうせ死ぬ)
と言ったし、松尾芭蕉は、
”月日は百代の過客にしてゆきかふ年も又旅人なり
舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老をむかふるものは
日々旅にして旅をすみかとす
古人も多く旅に死せるあり”(おくのほそ道)
(意訳:やっぱり死ぬ)
と言ったし、フランツ・リストは、
”Notre vie est-elle autre chose qu’une série de Préludes à ce chant inconnu dont la mort entonne la première et solennelle note?”(交響詩「レ・プレリュード」の序文)
筆者訳:人生とは、死というものが荘厳に歌い出す、この未知の歌に宛てられた前奏曲なのではないか?
(意訳:ハンガリー人でも死ぬ)
と言ったのであった。
すなわち生きることとは、死という逃れられない現実からいっとき逃げることであって、そのあいだにはなるべく楽しくて、自分が満足できるようなことをすべきなのだ。なぜなら、人生は壮大なひとつの現実逃避なのだから。現実逃避の最中に、現実と向き合ってどうするのだ。
そう考えると、自分で言うのは何だが、シャワーを浴びる時以外、私はかなり現実逃避の上手な方だと思っている。