フィクションにおける現実味の問題 サマセット・モーム『月と六ペンス』

 


 いま振り返ってみると、大学生のときの時間というのは、人生がもし小説だとしたら、本文ではなく余白のようなものだと思っている。人生がもし交響曲だとしたら、一楽章のどこかに置かれた音符のない長いゲネラルパウゼのようなものだと思っている。

 

 そんな大学生の時のある日、喫煙所で友人に会って、その時考えていた血液型に関する話をしたことをよく覚えている。

 

 私の話はこうだ。

 

「血液型別の性格分析ってあるやん。A型はキッチリしてるとか、B型はマイペースやとか……そういうのってだいたいAB型がオチに使われて、変人とか言われるわけ。で、そういうのって、科学的な根拠はまったくないらしいねんな。でも、思ってんけど、科学的な根拠がなかったとしてもやで、俺ら、昔からずっと、そういう風に血液型で性格がある程度決まってる、って言いながら、聞かされながら育ってきたわけやんか。何の根拠がなかったとしても、そういうのをちょっと信じてしまうことで、実際にそういう性格に育っていってしまう、っていうこともありえるんちゃうかな? で、それがまた実績になって、根拠のない分析がさらに強化されて、やがては本当に……っていうこともありえへんか? 『嘘から出たマコト』みたいな話やけど」

 

 

 ふんふんと頷きながら聞いていた友人は、話が終わると間髪入れずこう言った。

 

 

「こないだ同じような話、柴内先生が授業で言うてはったわ」

 

 

 なんや、そうなんか……私は世紀の大発見をしたつもりだったが、同じようなことを考える人は、当然いたらしい。その時柴内先生がどんな風に説明したのか、私はその授業を取っていなかったので(柴内先生の授業は確か4年生の時に取って、メチャクチャ面白かった。先生は残念ながらもう私の母校では教鞭を取っておられないのだが)わからないが、おそらく「予言の自己成就」とか「バーナム効果」あたりの例で血液型を出されたのではないかと推測している。興味のある方はぜひ上記のワードで検索してみてほしい。

 

 そんな風に心理学的にある程度解説ができてしまう現象であることを知った私だったが、これはなかなか面白い現象だなぁと感じていた。時を経て、大学という余白から抜け出し、再び無限の音符が待っている辛く苦しい本文的な人生を歩み始めたあとも、何となくこのことが気にかかっていた。

 

 私はどちらかというと、この「予言の自己成就」なる現象が生産されていくプロセスに興味があった。その結果というよりも、プロセスに。たとえばそれは、血液型別性格分析のような、偽科学的な言説だけに認められるのだろうか。もっと考えを敷衍して、たとえばフィクション(物語)に人間が感化されていく過程も一種の自己予言成就なのではないか。そもそも、人間の意志に、ものごとの真偽を見分ける力は備わっているのだろうか?……ということを考えたりして、面白くなっていたのだが、気がついたら就職したり、仕事を辞めたり、ぼんやりしたり、恋人ができたり、別れたり、小説を書いたり、再就職したり、楽器を吹いたり、塾長になったり、指揮をしたり、ヘルニアになったり、経営者と戦ったりしている間に傷つき疲れ果て、太り、たくさんの日にちが過ぎて、やがてサマセット・モームの「月と六ペンス」にたどり着いた。

 

 


「人生を棒に振る」小説

 

 


 この作品は難解ではない。20世紀以降の小説をある程度読んできた人にとっては、とくに新鮮というところもない。それでもこの物語はシンプルに面白いし、作品を通じて出てくるアイロニカルな表現にくすっと笑ってしまう。

 

 

だれの言葉だったかは忘れたが、人間は魂のために、一日にふたつはしたくないことをしたほうがいい。なるほどと思ったわたしは、以来その教えを忠実に守ってきた。つまり、朝がくれば起き、夜がくれば眠る。

 

 

 

 といった具合だ。全編を通じて、「わたし」が語っていく形式をとるのだが、この「わたし」が若い作家である点も見逃せない。この小説は、どの角度から全体を眺めるかによって、印象が変わってくるだろう。ある種のだまし絵のような、そういう作品と言えなくもない。

 

 たとえば美についての小説と解釈することができるし、男女の関係についての小説だと解釈することもできる。

 

 どのようにでも書評を書けるのだろうが、私はここで、果たして「人生を棒に振る」とはどういうことなのか? という問いに対して、フィクションとしての「月と六ペンス」がどのように応答したかについて述べたい。

 

 読んだ方はご存知だろうが、この小説の主要な人物はストリックランドという男だ。彼は、イギリスので銀行家としてそれなりに成功した人物で、美しい妻と子供がいて、何不自由ない生活を送っている。語り手である若い作家の「わたし」は、このストリックランドとパーティで出会うのだが、その時「わたし」はストリックランドに特に何の感想も抱かない。平凡な人間という印象を持っただけだ。

 

 しばらく経ったあと、「わたし」はストリックランド夫人から、夫が突如パリに行ってしまったということを聞かされ、自分の代わりに会いにいってほしい、と頼まれる。ストリックランドは40歳である。

 

「わたし」は色々な想像をしながらパリへ向かう。女と逃げたのではないか、というのが大方の予想だった。しかしパリに行ってみるとすぐにストリックランドは見つかる。ぼろいアパートに住んでいて、女の影はない。カフェで話を聞いてみると、ストリックランドは「絵を描いている」という。40歳にして、家族も、仕事も、それまで積み上げてきたものを全部捨てて、絵を描くために生きはじめたという。「わたし」にはそれが信じられない。なぜなら、ストリックランドは、それまでに絵を描いたことがないからだ。絵の教育もロクに受けていない。でも絵を描きたいのだという。「わたし」はそれを信じられないのだが……。

 

 ここから先は深刻なネタバレになるので避けざるを得ないが、面白いことは保証するのでぜひ読んでもらいたい。

 

「人生を棒に振るとはどういうことか?」という問いに対する答えは、見落とす人も多いかもしれないが、ストリックランドとは別の文脈で、モームが回答している。

 

 物語の終盤で、それなりに年を取った「わたし」が、ある医師と話をする。その医師はナイトの称号を得ているのだが、自分が医師として成功したのは、医学生時代の同級生が「人生を棒に振った」おかげであるという。

 

 その同級生はエイブラハムという名前で、最も優秀な医学生だった。エイブラハムは卒業後、王立病院にポストを得る予定だったが、ある日、旅行中のアレクサンドリアの港で突然気が変わった。彼はアレクサンドリアを気に入って、そこで医師として暮らすことにしたのだ。家族もできた。

 

 典型的なエリートコースを歩んでいたエイブラハムがそれを捨てて自分の好きな生き方をしたおかげで、繰り上がりで王立病院のポストを手に入れ、それをきっかけに成功の階段を登り、最終的に自分はナイトになれたのだとこの医師は言う。そして彼は、エイブラハムは「人生を棒に振った」のだという。

 

 それに対して「わたし」は、

 

 首をかしげた。エイブラハムは本当に人生を棒に振ったのだろうか。彼は本当にしたいことをしたのだ。住み心地のいい所で暮らし、心の平静を得た。それが人生を棒に振ることだろうか。成功とは、立派な外科医になって年に一万ポンド稼ぎ、美しい女と結婚することだろうか。成功の意味はひとつではない。人生になにを求めるか、社会になにを求めるか、個人としてなにを求めるかで変わってくる。だが、今度もわたしは黙っていた。作家風情がナイトに反論はできない。


 この部分が、モームの答えだと思う。

 つまり、「人生を棒に振る」ということは、あくまで相対的な価値観に基づくものにすぎないということだ。ナイトの医師にとって「人生を棒に振る」ことが、「わたし」にとってそうだとは限らない。妻や世間一般からみて「人生を棒に振った」ように見えたストリックランドだが、彼はまったく逆のことを考えていた。彼にとっては、それこそが人生で、40歳を過ぎても、同じように暮らしていくことのほうが、「人生を棒に振る」ことだったに違いない。

 

 

フィクションにおける現実味の問題

 


 この本を読んだ人は「果たして自分にこういう生き方ができるだろうか?」ということを自問することになる。すなわち、40までそこそこ成功した生き方をして(それがいかに難しいか!)、ある日突然、すべてを捨てて本当に自分が愛していると確信していることだけに人生を捧げることができるか、という問いだ。そこに、この物語の力があると考えている。そして、おそらくだが、この本を読んだ1000000人のうち一人くらい(少なすぎるか?)は、そういう生き方をする。それは、読まなくてもそういう人生をするのかもしれないし、読んだからそうしたのかもしれない。それは断言できない。だが、「そうなった時」に、その人の脳裏にはモームのこの物語が浮かぶはずなのである。この物語は、そういう契機を作り出す可能性があるし、契機とならなくても、補強する働きをするかもしれないのだ。

 

 私たちは実際そういう話をした。この本を勧めてくれた友人のY(留学中にずっと同じ寮に住んでいた「同じ釜の飯」ならぬ「同じ鍋のパスタ」をともに食べてきた友人で、今でも年に一度ほど会う)と京橋の風月でずっとそんな話をしていたのだ。俺ら、ストリックランドみたいに、40になったときにそっち行けるか? みたいな話である。

 

 フィクションは現実を侵食し、やがてフィクションは現実になる。そして現実は新たな物語となり、次のフィクションがそこから生まれる。

 

 というのが私のテーゼなのだ。この「月と六ペンス」が、なぜここまで読み継がれていて、私たちに刺さってしまうのか。これが例えば、

 


・40歳になったら突然眠っている能力が覚醒して画家になった


 だったら、たぶん響かない。ファンタジーとしてはあまりに地味だからだ。

 あるいは、


・40歳で突如画家を目指した初心者の私、筆を買いに行ったあの日から画家になるまで


 ドキュメンタリーとしては大変興味深いが、自分の人生とのあまりの違いに、消費はするだろうが、「摂取」(物語を自分の中に取り込み、現実の志向に影響させること)はしない。現実に近すぎる。


 だからこそ、


・40歳になり、平穏無事だったすべてを投げ打って画家を目指して生きたある男の物語


 これが一番ちょうどいい。これが一番現実味がある。ファンタジーやドキュメンタリーでは表現できない人生の妙味がある。 


 語り手である「わたし」が作家であり、ストリックランドが現実の巨匠であるポール・ゴーギャンをモデルにしたという点は、要するに、フィクションに現実味を付与する仕掛けの一つなのだ。

 

 

現実と物語の相互関係

 


 ちなみに、冒頭で私が述べた、興味がある「プロセス」というのは、要するに以下のようなものだ。物語が現実化していくサイクルのことだ。

 


ゴーギャンの人生(現実)

モームの解釈(現実)

物語化

モームの頭の中の「月と六ペンス」(フィクション)

「月と六ペンス」という書籍(現実)

読者の解釈(現実)

読者の意志(ヴィジョン)

読者の人生(現実)

誰かの解釈(現実)




 

 というサイクルがあるのではないか、ということだ。現実と物語は、対立する存在ではなくて、このように相互に影響を及ぼしながら進んでいくのではないだろうか。

 

 上記で言えば、とくに、フィクションがヴィジョンに影響を与える過程に興味がある。ヴィジョンというのは、人生の方向性というか、目標というか、そういう感じのものだ。


 フィクションなのに、我々はそれを現実のものとして取り入れてしまう。その辺に人間という動物のおもしろさがあると私は思っていて、逆に、それがないと人間らしくないなぁ、と思ってしまうのである。

 

 そのようなフィクションを生み出す秘訣について、「わたし」はこう述べているのだった。

 

 

 

 わたしはあくまでも自分の楽しみのために物語を書く。ほかの目的を持って小説を書こうとする者があれば、それは大ばか者だ