大平健著 やさしさの精神病理

 

 

 

 やさしさというのは、よく考えてみると複雑な概念である。私は、「好きな女性のタイプは?」と訊かれたら、「やさしい人です」と躊躇なく答えてきたけれど、ふと立ち止まって考えてみると、そのやさしさは、一体何を指しているのか、自分でもわからなかった。やさしさとか、やさしいとかいう言葉は使い勝手が良いけれど、その中身は案外わからないものだ。


 本書「やさしさの精神病理」が書かれたのは1995年だ。このことは頭の隅に置いて読み進めなければならないが、それにしてもおもしろい本である。やさしさの正体について考えてみたい人は、ぜひ読んでみてほしい。筆者である大平健氏が精神科医として、やさしさというものが時代を経てどのように変遷してきたのかを分析した本だ。「やさしさ」というたったひとつの言葉の中には、私たちの想像を絶する深刻で、複雑で、屈折した、しかし豊かな世界が垣間見える。

 


「やさしさ」がはやりの価値になったのは、六十年代後半の学園闘争時代のことのように思います。男も「やさしく」なければならなくなったのは、確かにあの頃のことです。そして、当時の若者にとって、「やさしさ」とは何よりも、「連帯」を目指すものでした。(p.69)

 


 大平氏が「古いやさしさ」として参照するのはこの時代のことで、それから比べて1995年のやさしさがどう変化したのかを分析している。筆者は、現代のやさしさを”やさしさ”として書き、古いやさしさを「やさしさ」とした上で、こう述べている。

 


”やさしさ”は「やさしさ」の伝統を引き継いでいる、ということになります。違いは「やさしさ」が相手の気持ちを察する(社会的弱者といくらでも「連帯」できてしまうというのが僕たちの十八番でした)のに対し、”やさしさ”が相手の気持ちに立ち入らないことです。(p.69)

 

 

 

 

”やさしさ”もさらに変化してゆきます。それは、治療としての「やさしさ」から予防としての”やさしさ”へという変化でした。お互いのココロの傷を舐め合う「やさしさ」よりも、お互いを傷つけない”やさしさ”の方が、滑らかな人間関係を維持するのにはよい。そういうことになったのです。(p.167)

 

 

 


 立ち入らないやさしさ、予防としてのやさしさ、ということで言えば、この傾向は現代も続いているように思う。というよりむしろ、1995年から2019年という、24年の経過は、”やさしさ”をさらに過剰にしたように思える。要するに”やさしさ”というものを盾にして、対象と関わらないという選択が見えてきたようにも思う。問題が起きてから対処する「治療」が従来のやさしさで、問題が起こる前に対処する「予防」が少し前までのやさしさで、現代のやさしさは、問題と関わらない、そもそもそういった情報をシャットアウトするということ、ある種の孤絶が時代の気分として確かに存在するように私には思える。

 

 

僕は、患者たちにペットの話をしてもらう時には、必ずその名前を尋ねるようにしています。……いったん「ウチの犬が…」というふうに話し始めると、患者はもう自分の気持ちを素直に表現することはできなくなります。客観的に話そうという構えが生じ、ペットに対する愛着心が知らず知らずのうちに抑えられてしまうのです。(p.122)

 

 

 

 


 この本が面白いのは、上記のような部分である。精神科医という仕事で培われたであろう話術のスキル(こう書くと安っぽく見えてしまうが、実際そうなのである)は、人と話す仕事をしている人にとっては非常に貴重なものだと思う。

 

 

 私がこの本に書かれていることを自分なりに、自分の心に照射してみて、自分の中のやさしさを探してみて感じたことは、私が言っている「祈り」というものは、もしかするとひとつのやさしさなのかもしれないと思ったということだ。私は「祈り」というものが、そういう時間を持つことが現代ではとても大切だと思っている。それは、言語か非言語かを問わず、私的か公的かを問わず、宗教であるかどうかを問わず、ありとあらゆるメッセージが飛び交っている時代に生きていて、完全に自分の中で完結し、相手に伝わるかどうかをもはや問題にしないメッセージが「祈り」だからである。究極の個人的メッセージである「祈り」の時間を持つということは、メッセージの戦場へ出て行く時に、どれが大切なメッセージで、どれが不要なものかを峻別するのに役立つ、というのが、私が祈りをオススメする理由のひとつである。

 


 しかし「祈る」などということを批判的に捉えてみると、それは要するに自己満足で、相手に対して言葉を吐く勇気がないからそう言っているだけなのだろう、と自分でも思った。もしかすると、それが私のやさしさなのではないかと思った。つまり、私のやさしさとは、中間的で、妥協的で、折衷案的なものなのだろう。曖昧で、どっちつかずで、八方美人なやさしなのだろう。

 

 

 色々と書いてきたが、この本が何よりも凄いのは終章に置かれた「心の偏差値を探して」である。ミステリ顔負けのストーリーで、事実は小説より奇なり、という諺を地でいくような話の展開なのだ。この章だけでも読む価値はあると思う。