グアルディオラ的

 

 私が働いている塾はいわゆる「個別指導」の塾だから、塾長であるところの私は、なるべく生徒と話す時間を持つようにしている。改まって面と向かって話す(たまにそういう機会もあるが)のではなく、ちょっとした雑談を毎週重ねていけるように心がけている。

 

 四月などは生徒が少ない時期(まぁ、少ないと色々マズイのだが)だから、そういう機会も自然とつくることができてうれしい。


 
 このあいだ、自習にやってきた高校3年生の男子生徒が、神妙な面持ちで、彼が通っている学校の新しい時間割を眺めていた。

 

 

「お、新しい時間割? すごいな、日本史と、国語と、英語ばっかりやん。よかったな」
「はい……でも世界史なんかは、うっとおしいですね」

 

 

 その生徒は、想定される受験科目が英語と国語と日本史なのだ。この間部活を引退して、いよいよ受験勉強に集中するぞ、という彼からすれば、世界史や数学の時間は邪魔なのかもしれない。

 

 

「どうしたらエエですかね? 世界史とか、別に勉強せんでもエエですか?」

 

 

 いや、この質問、これまで幾度となく突きつけられたが、うまい回答が見つからないのである。将来なんでも役に立つから勉強したらいいよ、とか、日本史と世界史は繋がってるから、やっといて損はないよ、とかそういう言葉が頭の中をグルグル回るが、なんか中途半端な感じがして、なかなか言い出せない。思い切って、「内職せぇ!高校なんか卒業できたらエエんや!」と言えればよいのだが、そんな勇気はないし、何より、私がそういう考え方ではないから、言葉にならない。私はどこかで、「科目間が密接につながっている感じ」、もう少し拡張して言うと、「知識と知識が反応し合う感じ」を経験してきているわけで、それが楽しいことも知っているし、たとえば世界史を学ぶことが、日本史の勉強に間違いなく活きること、人生で必ず役に立つことを「知って」はいるが、伝えるための表現が出てこない。

 

 

「知識というのは、どこかでつながっているものだからね……。同じ歴史で、日本史ともかぶるから…」
「ハア、そうですよね……」

 

 

 何とかひねり出したのはこの程度の言葉だったが、次の瞬間、自分でも思ってもいない言葉が口をついて出てきた。

 

 

「グア、グアルディオラ、おるやん?」
グアルディオラですか?」
「そうそう。監督の」
「ええ、もちろん知ってます」

 

 

 と、いうのもこの生徒はサッカー少年なのだった。

 

 

グアルディオラはさ、めちゃくちゃ強いやん?マンチェスター・シティ?」
「はい、めっっっちゃ強いですね。こないだ負けましたけど」
「ああそう、CLね、俺DAZN解約したから最近見てへんねんけど、まぁ、シティは強いわな」
「そうっすね」
「でな、グアルディオラは、チェスも強いねんて」
「チェス?」
「そう、チェスやで、チェス。ボードゲームや。サッカーと関係なさそうやんか……グアルディオラはどうも、いや、俺も詳しいこと知らんけど、サッカーの監督として超一流やけど、サッカーだけを研究してるわけじゃないねんて。チェスをやったり、何やったかな、バスケ?ハンドボール?そういう他のスポーツの戦術を研究して、自分のサッカーの戦術に活かしているらしい」
「へえ、すごいっすね」
「せやから、世界史勉強してもエエんちゃうかな」

 

 

 具体性みたいなものはまったくない。この生徒が実際に世界史とか他の科目を勉強するかはまったくわからないし、何なら彼の疑問は解決されていないかもしれない。もしかしたら、来週から世界史の時間にコッソリと古文単語の暗記に努めるかもかもしれない。そうだったら、このアナロジーはまぁ、彼にとって、あんまり意味がなかったことになるのかもしれない。

 

 何かを学ぶ、とは結局のところ、膨大なアナロジーの体系に他ならない。
 彼にとってはともかく(無論、御武運?を祈るわけだが)、私自身が、この対話を通じて、あぁ、自分は知というものの、いち側面をこんな風に捉えていたんだ、これまで私が言いたかったのはたぶん、グアルディオラ的なことだったんだ、ということに気づいたのだ。

 

 だからもしかすると私が生徒と雑談するのは、生徒のためではなく、私のためなのかもしれないと思った。